『現代生活の画家』第09章「ダンディ」

9、ダンディ Le Dandy

裕福で、暇はあるが、何にも心を動かされなくなってしまい、唯一関心を持てるのは幸福の追求であるような男。豊かさの中で育ち、幼いころから他人の従属を当たり前に思い、優雅さ以外に職業を持たないような男。このような男は常に、どのような時代においても、際立った独自の容貌に恵まれているだろう。ダンディスムとは、一つの漠然とした、決闘と同じくらいに奇妙な制度である。その起源は非常に古く、カエサルやカティリナやアルキビアデスは、その輝かしい模範を我々に示している。そして非常に普遍的なものである。というのもシャトーブリアンは、これを新大陸の森や湖畔の中に見い出している。ダンディスムとは法律の外にある法であり、その臣下たちは皆、たとえ彼らの性格が血気盛んで自立心に溢れていても、この厳格な法にしかと従わねばならない。

イギリスの小説家たちは、他の国よりも特に、「上流生活」の小説を発展させてきた。フランスの小説家たちは、ド・キュスティーヌ氏を初め、特に恋愛小説を書こうとして、実に適切なことにも、まず登場人物たちに十分豊かな財産を持たせ、彼らがどんな幻想のためにでも躊躇せず出費できるように配慮した。この人物たちは、自身のうちに美の観念を発展させ、情熱を満たし、物事を感じ、考える以外の義務を持たない。登場人物たちは幸運なことにも、このようにして多量の時間と金銭という、それなしでは幻想も、単なる束の間の夢想の状態に留まり、行動に表されることが出来ないものを所有することとなった。残念な真実ではあるが、閑暇と金銭がなければ恋愛も、平民のお祭り騒ぎや夫婦の義務の遂行でしかない。燃え上がる夢見心地の気紛れの代わりに、嫌悪すべき有用性に成り果ててしまう。

ダンディスムに関して話をするときに私が恋愛のことを言うのは、恋愛というものが暇を持て余す人々にとってのごく自然な関心事だからである。とはいえダンディは恋愛を特別な目的と見なしたりはしない。私が先ほど金銭について話をしたのも、金銭というものが自身の情熱に対して信仰を持つ人々にとっても不可欠なものだからである。ただしダンディは金銭を本質的なものとして追い求めたりはしない。ダンディにとっては無制限の信用があれば事足りるので、彼らはこの下品な情熱を、死すべき世俗の人々の手に委ねている。ダンディスムとは、思慮の足りない人々が思うような、身繕いや物質的優雅さに対する過度の執着などではない。こういったものは、完璧なダンディにとって彼の精神の貴族的優越性を象徴的に示すだけでしかない。それゆえに、特別であることに何よりもこだわる彼の目においては、完璧な身だしなみというものは完全に単純であることにあり、これこそが自らを特別な存在にするための最良の方法なのである。しかし、この情熱、教理となり横柄な信者たちを獲得した情熱、高くそびえる階級を作り上げた不文の制度とは、一体何なのか?それはまず何よりも、慣習の外枠の中に収まったままで、独創性を作り上げようとする情熱的な欲求なのである。この一種の自己に対する信仰は、他人の中に、例えば女性の中に見出されるような幸福の追求よりも、長く存続しうる。さらには幻想と呼ばれるあらゆるものよりも長く存続しうる。そこには人を驚かせる快楽と、決して人に驚かされないという尊大な満足とがある。ダンディは無感動になった男でもありうるし、苦しんでいる男でもありうるが、後者の場合、彼は狐に咬まれるスパルタ人のように微笑むだろう。

幾つかの点において、ダンディスムが精神主義やストイシスムと隣り合っていることが分かる。しかしダンディは決して凡庸な男であってはならない。たとえ彼が罪を犯したとしても、おそらくそのことは彼の価値を低めはしない。しかしもしもその罪が、卑俗な原因から生まれたのであれば、その不名誉は修復しがたい。このように真面目さを軽薄な事柄に向けるからといって、読者の方は憤慨しないで頂きたい。そして、あらゆる狂気の中には偉大さがあり、過剰なものの中には一つの力があることを思い起こして頂きたい。しかし何とも奇妙な精神主義である。司祭であると同時に、生贄でもあるような者にとって、彼が従うところの複雑な物質的制約は、非の打ち所のない昼夜の身繕いから、スポーツの非常に危険な技にいたるまで、全てが意志を鍛え、魂を制御することを目的とした訓練以外の何物でもない。実際、先ほど私がダンディスムを一種の宗教と見なしたことも、完全に間違っていたわけではない。非常に厳格な修道院の戒律も、酔っ払った弟子たちに自殺を命じた<山の老人>の逆らいがたい命令も、この優美さと独自性との教理に比べれば、より専制的でもなければ、より従われもしなかった。この教理もまた野心的で、慎ましやかな信徒たち、しばしば激情と、情熱と、勇気と、抑制された活力とに溢れた男たちに、次のような恐ろしい警句を突きつける。「死体のごとくあれ!」

この男たちは、ラフィネ、アンクロワヤーブル、ボー、リオン、そしてダンディなどと呼ばれてきたが、これら全ての男たちは同じ起源から出ている。誰しもが、対立と反逆という同じ性格を共有している。誰しもが、人間的な傲慢さの中にあって何よりも優れたものを体現している。すなわち、今日では余りに稀有なものとなってしまった、日常性を打ち倒し破壊することへの欲求である。この点から、ダンディにおいては、挑発的な階級が持つ尊大な態度が生まれ、それは彼の冷徹さの中にまで表れる。ダンディスムが生まれるのは、とりわけ民主制がまだ十分に力を持たず、貴族制が部分的にしか揺らぎも堕落もしていないような、過渡期の時代においてである。こういった時代の混乱の中で、身分を失い、関心を失い、仕事を失ったが、生まれながらの力をまだ豊富に持っているような人々の幾人かが、一種の新しい貴族制度を設立しようと企てることがある。その貴族制度は、最も貴重で最も破壊しがたい能力、労働と金銭とでは授けることの出来ない天の恩寵に基づいているため、容易に壊されることがない。ダンディスムとは、デカダンスにおける英雄主義の最後の輝きである。ダンディの一形態が、旅行者によって北アメリカで発見されたということは、いかなる点においても、この考えを弱めはしない。何故なら、私たちが「未開人」と呼ぶ部族たちが、今では滅びてしまった偉大な文明の生き残りであるという仮定は、何によっても妨げられるはしないからである。

ダンディスムとは、沈み行く太陽である。あの傾いた星のように、ダンディは壮麗で、熱気なく、憂愁に満ちている。しかし!民主制の満ち潮が全てを押し出し、全てを平らに均してしまう。一日一日と、この人間的な傲慢さの最後の代表者たちを水に沈め、忘却の波を、これら驚くべきミュルミドンたちの足跡に注いでしまうのである。ダンディは私たちのもとにおいて次第に稀有なものとなりつつあるが、その一方で私たちの隣人であるイギリスでは社会体制と法(慣習によって表明された真の法)とが、これからも長期にわたってシェリダンやブランメルやバイロンの後継者たちに居場所を残しておくだろう。ただし、それに値するものが居なければならないのではあるが。

読者にとって余談に思われたことも、実際には余談ではない。考察と精神的夢想とが、ある画家のデッサンから浮かび上がったのであれば、多くの場合それこそが、そのデッサンに対して批評家がなしうる最上の翻訳なのである。暗示的なものもまた本源的な思想の一部をなすのであるから、それを一つ一つ示していくことで、思想そのものを見抜かせることが出来る。G氏は紙の上にダンディを描くとき、もしも問題となっているのが、現在という時間や、一般的に言って軽薄と見なされるようなことでないのであれば、そのダンディにいつも歴史的な、伝統的な性質を与えているということは言うまでもないだろう。まさにこの点において、軽やかな歩き振り、確固とした仕草、支配的な様子の中の純真さ、服の着こなし方、馬の駆り方、そして、いつも落ち着いてはいるが活力を顕わにした態度とが、かくも不思議に優美さと恐ろしさとが混じりあう特権的な存在の一つを私たちの視線が見出したとき、次のように考えさせるのである。「おそらく彼は裕福な男なのだろう。しかしそれより間違いないのは、彼が使い道のないヘラクレスだということだ。」

ダンディにおける美の性質は何よりも、心を動かされはしないという揺ぎない決意から来る冷徹な態度にある。それはあたかも、隠れてはいるがその存在の感じられるような火、輝くことは出来ても輝こうとはしない火のようである。こういった事こそが、これらの絵画の中に完全に表現されている。

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