『現代生活の画家』第05章「記憶の芸術」

5、記憶の芸術 L’art mnémonique

この「野蛮」という言葉を、おそらく私はあまりにも頻繁に用いてしまったが、一部の人たちはこの言葉によって、問題となっているのが、想像力によってのみ鑑賞者が完全なものに変えられるような、ゆがんだデッサンだと思ってしまうかもしれない。しかし、それは誤解と言うものである。私が話をしたいのは、不可避的で、綜合的で、子どもじみた野蛮さであり、完全な芸術(メキシコや、エジプト、ニニヴィアなど)の中にもしばしば見とめられる、事物を大きな視野で見て、何よりも全体の効果においてそれを評価しようとする必要性から生じる野蛮さである。綜合的で省略的な視線を持ったあらゆる画家を、多くの人が野蛮という言葉で非難してきたことに、ここで注意することは無駄ではないだろう。例えばコロ氏であるが、彼は何よりも先んじて、風景の骨組みであり表情である、その基本となる線を引くことに専念する。そのようにしてG氏は、自らの印象を忠実に翻訳し、本能的なエネルギーによって、ある対象の際立ち、光り輝くような瞬間(劇的な観点から見て、際立ち、光り輝くような瞬間)を記す。もしくは、その対象の主要な性格を、人間の記憶にとって有用である誇張さえをも時に用いながら記す。そして今度は、鑑賞者の想像力が、この専制的な記憶術を受け入れて、G氏の精神から生まれた印象を丁寧に見る。その時、鑑賞者は、常に明瞭であり陶酔を引き起こす一つの翻訳物に対する、さらなる翻訳者となるのである。

この外的生活の伝説的な翻訳の活力に、多くのものを付け加えるような条件というものがある。私が言おうと思っているのは、G氏の絵を描く方法についてである。彼は記憶に基づいて絵を描くのであって、すぐに急いで記録を残すような、ある題材の基本的な輪郭を残しておくような、緊急の必要性がある場合(例えばクリミア戦争のときなど)を除けば、モデルに基づいて描くことはない。実際、あらゆる真の優れたデッサン家たちは、彼らの脳内に記されたイメージに基づいてデッサンを描くのであり、自然に基づいて描くのではない。もしもあなたがラファエロやワットーやその他多くの画家の優れた素描画によって、この意見に反駁するのであれば、私はこう言おう。それらは確かに、大変に綿密な下書きである、しかし純粋な下書きでしかないのである、と。本物の画家がその作品の最終的な制作に到達したとき、モデルは彼にとって拠り所となるよりも、むしろ障害となるだろう。さらには、ドーミエやG氏のような、既に長い間その記憶を鍛えて、様々なイメージで記憶を満たすことに慣れているような人物たちの場合、モデルとそのモデルが内包している多様な細部を前にすると、彼らの主要能力が乱され、あたかも麻痺してしまったかのようになるのである。

その時、一つの決闘が、全てを見ようとする意思、つまりは何も忘れずにいようとする意思と、全般的な色彩や、輪郭や、周囲のアラベスク模様を、生き生きと吸収する習慣を身に付けた記憶能力との間で行われる。形態についての完全な感覚を持っているが、自分の記憶力と想像力の方を用いることに慣れた芸術家は、完全な平等を愛する群衆たちの怒りを伴い、いっせいに公平さを求める細部たちの暴動に襲われるかのような状況に立たされる。あらゆる公正さは必然的に侵害される。あらゆる調和は破壊され、犠牲になる。多くの取るに足らないものが、巨大になる。多くの小さなものが、王位簒奪者となる。芸術家が細部に対して公正さをもって取り組むほど、無秩序が高まっていく。その芸術家が視野狭窄であろうと老眼であろうと、あらゆる階級制度と従属関係が消えうせるのである。このような事態は、今日の最も流行に乗った画家たちの作品の中にしばしば現れている。もっとも彼らの欠点は群集の欠点に見事に適合しているので、欠点は奇妙なことにもその画家の人気を支えている。同様の類似関係が、実に神秘的で深遠ではあるが、今日では退廃の混沌の中に陥ってしまった役者による、その技の実践の中にも見受けられる。ルメートル氏は、その才能の豊富さと幅広さとを用いて、一つの役柄を作り上げる。彼の演技にどれだけの光り輝く細部が散りばめられていようとも、その演技は常に綜合的であり彫刻的であり続ける。ブーフェ氏は視野の狭く官僚的な細かさでもって自分の役を作り上げる。彼においては全てが光り輝くものの、何一つそこには見えず、何一つ記憶によって保たれようとはしない。

以上の通り、G氏の制作活動の中には2つのものが見られる。一つは、事物を蘇えらせ喚起する記憶の集中であり、一つ一つの事物に対して「ラザロよ、目覚めよ!」と言う記憶力である。もう一つは、炎であり、ほとんど怒りにも似た、鉛筆や絵筆による陶酔である。十分早く進んでいないのではないかという恐怖であり、綜合を引き出し、捉える前に、幻影を逃がしてしまうのではないかという恐怖である。このすさまじい恐怖があらゆる偉大な芸術家を支配し、あらゆる表現技法を自分のものにしようと彼らに熱望させるのである。それは、精神による命令が手元での躊躇によってけっして変質してしまわないようにするためであり、最終的に制作作業が、理想的な状態では、夕食を食べたにもかかわらず、その人間の脳にとって消化作業がそうであるように、無意識的なものになるためである。G氏はまず鉛筆によるうっすらとした素描から始める。その線はけっして、事物が空間に保っているべき場所を記しはしない。その次に、主要な諸景が淡い色調によって示される。まずぼんやりと、うっすら色付けされたそのまとまりは、後になって再び着手され、今度はよりはっきりとした色を与えられる。最後の瞬間に、事物の輪郭がインクによって決定的に際立たせられる。見たことがないのであれば、簡単で初歩的でさえあるこの方法によって彼が獲得できた驚くべき効果を予測することはできないだろう。この方法には、その進行状況のいかなる点においても、それぞれのデッサンが十分に仕上がっているように見えるという比類なき長所がある。お望みであれば、それを下書きと呼んでしまってもかまわないが、しかしそれは完全な下書きなのである。あらゆる色価が完全な調和の中にあり、作者がより遠くに推し進めようと思えば、その色価は、いつでも望みの完全さに額を向けて、進み続ける。そのようにして、G氏は一度に20ものデッサンを、血気盛んに、そして魅力的で当の本人にとっても愉快であるような喜びとともに、準備していくのである。素描画は積み上げられ、数十、数百、数千と積み重ねられていく。時々彼は、その素描画を見渡し、目を通し、調べ上げ、そしてそこから選び出した幾つかのものに、場合に応じて強度を付け加え、影をまとわせたり、しだいに明るくしたりする。

彼は背景を非常に重要視している。彼の背景は、力強いものも、軽いものも、常に人物に適した質と特性を持っている。色調の音階と、全体の調和とが、研究というよりも本能から生じた天才的能力によって、厳密に守られている。というのも、G氏は生まれながらにして、色彩画家が持つこの神秘的な才能を持っているのである。これこそ研究によって高めることはできても、生み出すことができないような、本物の天恵であると私は思う。一言で言い表せば、我らの独創的な芸術家は、存在する事物の荘厳にしてグロテスクでもある仕草や態度と、それらが空間の中で光り輝き爆発する姿とを、同時に表現するのである。

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