『現代生活の画家』第11章「化粧礼賛」

『現代生活の画家』
11、化粧礼賛 Eloge du Maquillage

実に卑俗で愚かしい歌がある。何らかの真面目な意図を持った論文においては引用出来ない歌ではあるが、流行歌謡家の調子で、物事を考えない人々の美意識を非常に上手く表現している。「自然は美をより美しくする!」この詩人がフランス語を知っていたならば、おそらく彼はこう言ったのではないかと推測される。「素朴さは、美をより美しくする。」この言葉は、ある思いがけない種類の真実と等価である。「無が存在しているものを美しくする。」

美に関する誤りの大多数は、18世紀の道徳に関する誤った概念に起因している。当時自然は、あらゆる善と、存続しうるあらゆる美の基礎であり、源であり、見本であると見なされていた。原罪の否定が、この時代の盲目に果たしたものは少なくない。とはいえ、明白な事柄に訴えかけるだけにするならば、あらゆる年代の経験や、「裁判所時報」を通して、我々が学ぶことが出来るのは、自然が何も教えない、もしくはほとんど何も教えないということである。自然は人に、眠ること、飲むこと、食べること、有害な大気に対抗して良くも悪くも身を守ることを強制する。そしてこの自然が、同胞を殺し、食し、監禁し、拷問にかけるよう人を駆り立てるのである。というのも、必要性と欲求との領域を脱し、奢侈と快楽の領域に入り込んでしまえばすぐに、自然の助言できるものが罪でしかないことに我々は気付くのである。この不謬の自然が、親殺しや食人、そして恥じらいと繊細さのために名付けることができないようなその他の幾千ものおぞましい行為を生み出した。哲学(よい哲学のことを私は言っている)と宗教は、貧しくて衰えた親族たちの世話をするようにと我々に命じる。しかし自然は(自然とはすなわち我々自身の利益の声に他ならない)親族たちを殺すようにと我々に命じる。あらゆる自然なもの、完全に自然な人間のあらゆる行為とあらゆる欲望とに目を通し、それを分析したならば、そこには醜悪なものしか見つからないだろう。あらゆる美しいもの、高貴なものは理性と計算の結果である。罪という、獣人が母の腹からその嗜好を汲み出したものは、本源的に自然なものである。その反対に、美徳は人工的で、超自然的なものである。というのもあらゆる時代、あらゆる国において、獣と化した人間たちに美徳というものを教え込むためには神々や預言者たちがいなければならず、人間はただ独りでそれを発見することが出来なかったのである。悪は努力せずとも、自然に、運命に従って為されうる。善は常に、技巧による産物なのである。道徳における間違った助言者である自然に関して私が言ってきたこと、そして真の贖罪者であり改革者である理性について私が言ってきたことは、美の領域にも移すことが出来る。そのために、私は装身具を、人間の魂の本源的な高貴さの現われとして見なすところに至る。我々の混乱し堕落した文明が、まことに笑うべき傲慢さと自惚れをもって「野蛮」と呼ぼうとする種族たちは、まさに子どもと同じく、身だしなみが持つ崇高な精神性を理解している。未開人と子どもとは、煌く物や、色とりどりの外観のもの、光沢のある布地などの、人工的な形式が持つ最上級の偉大さに対して純粋な憧れを持ち、それによって現実に対する反感を示している。そして知らず知らずのうちにも、自分たちの魂の非物質的な特性を証明しているのである。愚かなのは、ルイ15世のように(彼は真の文明社会の産物ではなく、野蛮さへの回帰の産物である)、その倒錯を推し進めて、もはや単なる自然さをしか味わえなくなった者たちである。

流行とは、人間の脳の中で、自然な生が集めてくる粗雑なもの、地上的なもの、汚れたもの全ての上の表面に浮かぶ、理想への嗜好の徴候として見なすべきである。自然に対する崇高な変形や、さらには自然の変革へ向けての永久で絶え間ない試みであると見なすべきである。それゆえに良識的にも我々が(その理由を見出すことなく)、注意してきたのが、あらゆる流行は魅力的であるということ、つまりは、流行というものは全て、美へ向かっての多かれ少なかれ幸福な新しい努力であり、人間の満たされない精神を絶えず欲望によってくすぐるような理想への、何がしかの接近であるという点で相対的に魅力的なのである。しかし流行というものは、もしもそれをしっかり味わいたいのであれば、死んでしまったもののように見なしてはならない。それでは、どこかの古道具屋の箪笥にしまわれた聖バルテルミーの皮のように、吊り下げられて、だらりとした、生気のない遺品を愛好することと同じである。むしろ流行は、それを着こなしている美しい女性によって、活力を与えられ、生き生きとしているものとして想像すべきである。そうすることによってのみ我々はその意味と精神とを理解出来るであろう。それゆえ、もしも「あらゆる流行が魅力的である」という箴言があまりにも絶対的であるがゆえにあなたを困惑させるならば、次のように言えば、あなたも誤謬がないことを確認するであろう。「あらゆる流行が魅力的であるのは正当である。」

女性はその権利に基づいて、さらにはある種の義務の遂行として、自らを霊妙で超自然的に表そうと専念する。女性は驚きを与え、魅了しなければならない。偶像として、女性は愛されるように自らを飾らなければならない。それゆえ女性は、あらゆる技巧に頼って自然を凌駕し、よりいっそう人々の心を魅了し、精神を刺激しなければならない。そのための術策や技巧が誰しもに知られていることは、その成功が確実であり、その効果が抗いがたいものとして永続するのであれば、たいした重要性を持たない。以上の考察に基づいて哲学的芸術家が容易に見出すであろうことは、あらゆる時代に女性たちが、言わばその壊れやすい美を強化し、神聖化するために用いる手段は全て正当である、ということである。しかし、今日俗に化粧と呼ばれている物事に限っていうならば、誰が理解できないだろうか、白粉の使用は、純真な哲学者たちから愚かにも排斥されているけれども、その目的と結果は、自然が屈辱的にも撒き散らしたシミを顔から消し去ること、肌のきめと色彩の中に、抽象的な統一性を作り上げることであり、この統一性はストッキングによって作られるものと同じく、たちまち人間の存在を彫像に、つまり神聖で至高の存在に近づけてくれる。目を縁取る人工の黒と、頬の上部を特徴付ける赤について言うと、その使用は自然を凌駕する必要性という同じ原則からもたらされているが、その結果においてはまったく反対の必要性を満たしている。赤と黒とは生を象徴する。超自然的で過剰な生である。黒の額縁は眼差しをより深遠で奇妙なものにし、目の印象を無限に対して開かれた窓のように確固たるものにしている。赤はというと、赤は頬骨を燃え上がらせ、瞳の輝きをよりいっそう高め、美しい女性的な顔に、女司祭のように不可思議な情熱を添える。

もしお分かりいただけたならば上記のように、顔の絵画というものは、美しい自然を模倣したり、若さと張り合うという卑俗で恥ずべき目的のために用いられてはならない。それに技巧は醜さを美しくするのではなく、ただ美に仕えることしか出来ないということを我々は観察してきたのである。いったい誰が芸術を、自然の模倣という不毛な役割に帰そうとするのか。化粧はその存在を隠したり、見抜かれるのを避けたりするものではない。化粧はその反対に、気取りではないとしても、少なくとも一種の純真さをともなって身を曝け出すことが出来る。

重々しい深刻さのために、美というものをその最も細やかな表出に至るまで探求しようとは思わないような人々が、私の考察を笑いものにし、その子どもじみた盛り上がり振りを非難するとしても、私は一向に構わない。彼らの厳格な判断の中に、私の心に触れるものは何一つない。私はただ真の芸術家たち、そして生まれながらに聖なる炎のきらめきを宿し、それによって自らの全てを輝かせようとする女性たちに訴えかけるだけで満足しよう。

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