『超!ボードレール入門』02「時間との戦い」

『超・ボードレール入門!』 ― その2「時間との戦い」

「時」と戦う芸術家、というのはけっして珍しいテーマではない。芸術の多くが何らかの形で記憶と深く関わっていることを考えれば当然のことだろう。たとえば古代ギリシアから詩や物語は、実際にあった出来事を後世に伝承していく働きをもしてきたわけだし、日本でだって源氏物語や平家物語は、それぞれ時代や舞台は違えども、当時の社会を映し出し、それを今にまで伝えているからこそ芸術と呼ぶのかもしれない。音楽だって全ては記憶に始まったと言える。記憶されることのない音楽は、いつまでたっても即興でしかない。とつぜん作られたメロディーを、そしてリズムを記憶し、それを人々が受け継いでいく。絵画については更に直接的だ。かつては歴史画や肖像画といったジャンルが絵画の中心であったことからも分かるように、画家たちは時の権力者の庇護を受け、彼らの栄光を記録することでその期待に応えていた。もちろん、ただ記録するだけではない。たとえ王族の肖像画を描きつつも、自分が見たこと感じたことを絵の中に残す、という一個人としての欲求が彼らの中にもあったことだろう。移ろい続けなければならない人間の宿命に対して、何かを「残そう」とするものが芸術の根本の一つなのだと思う。そういうことを意識すると、芸術家にとって「時間」とはまさに戦うべき敵そのものなのだ。「不運」という詩のなかに、そのまんまの詩句がある。

>どれほど作品に思いを懸けようとも~
<芸術>は長く、<時間>は短い。

この表現、実は古代ギリシャのお医者さんが残した言葉で、<芸術>ではなく、医者の技術の習得には時間が掛かるけど、人生は全てを学ぶには短すぎるという意味だった。でもボードレールは、芸術と時間という枠組みに移し変えて使っているのだ。さらには、ボードレールはまさしく「敵」と題する詩篇の中で、<時間>と、芸術家としての自己との戦いを描いている。

>ああ 苦しみ ああ 苦しみだ。<時間>が命を食らっている。

そもそも、人間誰しも、別に芸術家じゃなくたって、時間というものについて悩んだり苦しんだりするものだろう。まず、時間っていうものが何なのか、よく分からない。空間のように体で感じたりすることの出来ないものだから、時計という装置を使って時間を計るけど、世界中の時計がいっせいに壊れてしまったら、本当に正しい時間は誰にも分からなくなってしまうのだろうか。それに、いつからかアインシュタインが相対性原理なんて言い出して、時間って言うのは縮んだり伸びたりするらしいっていうややこしいことになってきた。マンガや小説や映画ではタイムマシンなんてのが当たり前に出てきているけど、いつまでたっても僕らが時間旅行を出きるようになる時代は来そうにない。おそらく、そんなことは無理なんだろう。そう、そこに我々にとっての時間というものの根本がある。人間は、時間の流れにたいして一方的に従うしかない。空間の中では、人間は空を飛んだり、海にもぐったり、超特急で移動したり、360度の方向に向かって色々頑張っていのだけれども、時間の中で人間は、過去から未来へと、ただ一方向に、いつも(おそらく)同じスピードで、死というゴールめがけて進んでいるだけなのだ。別に僕らは、斜め30度の方角に時間を進んでみたいなんて贅沢は言っていないのに。ただ、ちょっと立ち止まってみたり、反対方向に後ずさりしたいだけなのに。

でも、そんなこと出来ないってことは何となく、誰もが承知している。だから人間に出来るのは、ただ時間の流れの中で、流れに逆らおうと訳も分からずもがき続けることだけだ。でも、その「もがき方」っていうのでも、それを詩人が生涯を掛けて、言葉を尽くして表現してみたならば、意外と面白いものになっていたりする。別にそれで、誰かが時間の流れから抜け出せる訳ではないのだけれど。それで、ボードレールという詩人は(ようやくボードレールに戻ってきた。)、時間のなかで苦しむさまを色々なかたちで詩の中で表現してきた人なのだ。そのテーマを扱っている代表的な詩篇を挙げれば、「敵」「幻影」「虚無の嗜好」「大時計」「パリの夢」「二重の部屋」「酔いたまえ」など。もちろん他にも色々あるけど、なかでも時間が中心的テーマになっているものを挙げてみた。

その詩篇の中でボードレールが表現するのは、「時間は何とすばやく過ぎ去ってしまうんだ!」ってことだけではない。そういうことを率直に表現した詩人は既にたくさんいたし、なにか、もっと激しく胸をえぐるような恐ろしい時間の感覚をボードレールは描きたかったんだと思う。そこでボードレールが好んで用いたイメージというのが、細分化された時間のイメージだ。たとえば、想像してみて欲しい。映画かドラマで、いまにも主人公の目の前で時限爆弾が作動しそうだ。目の前にデジタル時計が表示される、あと10分、あと09
:55、あと09 :42。このあたりはまだ落ち着いて見ていられるけど、あと00
:15くらいになっていくと、一秒一秒カウントされていくのをドキドキしながら注目してしまう。注目するというか、ハラハラして、もう見ていられない。ぴっ、ぴっ、ぴっ、と時計の数字が減っていく音の一回一回に眩暈を感じるかもしれない。さて、しかしですね、もしも、この映画の演出が簡略化されていて、あと何秒で爆発するのかよく分からなかったり、一秒ごとにデジタル音がピコピコなって恐怖を掻き立てたりしなければ、なんだか味気ないシーンになってしまう。「あ、えーと、あと何秒残っていたのかよく分からんけど、助かったみたいだ」なんてのでは、なんのスリルもない。

このように、時間がもたらす恐怖というのは、実は終わりが近付いているという感覚(爆発だとか死だとかね。)ではなくて、その終わりに向かって着実に、一歩ずつ前進しているんだという瞬間瞬間の意識なのだ(と僕は思う。そしておそらくボードレールもそう考えていた)。だからボードレールは「虚無の嗜好」の中で、

><時間>が私を一分一分と飲み込んでいく

と書いたのだろうし、「大時計」の中では、memento
mori(死を思い出せ)という伝統的なテーマを扱うにあたって、<分>よりもさらに細かい単位である<秒>を持ち出して、

>一時間に三千六百回、<秒>は~
ささやく、「思い出せ!」と。

と書いたのだろう。しかし考えてみれば、恐ろしい表現である。どれだけ陰気で心配症な人でも、自分の死だとか残りの人生の長さを考えて絶望するのは、多くても一日に2度か3度くらいでしかないと思う。それが、この詩では、毎秒毎秒自分の死を思い出さなければならないという。ずっと死を考え続ける、というのではない。一秒一秒、新たな気持ちで再び死を意識しなおすというのだ。そんなことしてたら他のことが何も出来なくなってしまう。頭がおかしくなって自殺でもしてしまうんでないだろうか。さて、ここで紹介するのにちょうどいい詩がある。「変わり者の夢」という詩だ。タイトルからして確信犯的なのだが、ボードレールの韻文詩の中でおそらく最も奇妙な詩篇であるこの作品からの引用。

>運命の砂時計が空になっていくほど、~
私の苦しみは苦く、甘美になっていく。

砂時計の中で砂が一本の美しく細い筋になって落ちていくのを眺めるのは、心地よいことだと思うけど、それが運命の砂時計と言われてしまうと話は違う。日本風に言えば、「ほらご覧、あれがお前の寿命を示す蝋燭だよ。」というやつだ。砂の一粒一粒が、今では愛おしくてたまらない。砂時計が空になればなるほど、残りの砂粒が惜しく思われていく。「命というのは燃え尽きる寸前に最も輝くのだ」、というのは誰の言葉だったろうか(たぶん何かの少年漫画だったと思う・・・)。とにかく、ここでも時間というものは、漠然とした人間が生きる<舞台>のようなものではなく、具体的なものとして現われ、そして瞬間瞬間の重みを、恐ろしくもあれば美しくもある重みを、感じさせているのである。

しかし、ここまで時間に執着してしまっていては生きていくことさえ難しくなってしまう。それならば、どうすればよいのか。

>酔いたまえ、酒でも、詩でも、美徳でも、何でも構わないから、酔いたまえ。

というのがボードレールのとった一つの回避策だ(「酔いたまえ」より)。何かに陶酔しているとき、人間は我を失い、時間の感覚すらも亡くしてしまう。それだけが人間が時間から逃れられる唯一の方法なのだ、と詩人としてのボードレールは主張する。しかし、陶酔のときはいつまでも続きはしない。夢には必ず終わりがある。「パリの夢」や「二重の部屋」に描かれているように、陶酔の後には、現実がより悲惨な姿で舞い戻ってくるのである。結局のところ、詩人ボードレールによる時間との戦いは、完全な詩人の側の敗北に終わっているように思う。というのも、初めっから詩人のほうには勝つつもりなど全然なかったのだろうから。たぶん、詩人の役割というのはそれでいいのだと僕は思う。イリアスでのヘクトールの死から水滸伝の後日談まで古今東西、負け戦を描いた名作は枚挙にいとまがないではないか。

『超・ボードレール入門!』 ― その2「時間との戦い」 ― 終わり。

執筆、2008年11月27日