『超!ボードレール入門』03「悪について」

『超・ボードレール入門!』 ― その3「悪について」 [#s06e125d]

『悪の花』というタイトルは、フランス語のLes Fleurs du
Malにしろ、日本語訳の『悪の花』(もしくは『悪の華』)にしろ、非常に魅力的なタイトルだ。なにしろ「mal」「悪」という一字は、それだけで無限のイメージを喚起させうるのだから。『悪の花』というタイトルの詩集を本屋やネットでたまたま見かけて、それを読んでみようと思ったあなたは(それがはるか昔のことであれ、つい最近のことであれ)、「悪」という言葉が持つ何らかの力に魅了されていたに違いない。あなたはその瞬間、「悪」という言葉から何を連想していたのだろうか。ニュースを賑わすような、たとえば窃盗、横領、殺人、強姦といった犯罪だろうか。もしくは、そのような俎上には安々と上がらないけれども、僕らの心に巣くっている、もっと根源的で致命的な「悪」、例えば怠惰、傲慢、嫉妬といった「悪」だろうか。具体的であれ、抽象的であれ、僕らの世界にはそのような「悪」というものが溢れている。それを描いたのが『悪の花』という作品だと言うことができるだろう。実際、『悪の花』の序詩「読者へ」は次のようにして始められている。

>愚かさ、過ち、罪、そして吝嗇が~
私たちの精神にはびこり、私たちの肉体を苦しめる。

「悪」は僕たちを脅かす「敵」として外の世界に存在しているのではない。肉体と精神という二元論を越えて、僕たちの存在そのものの中に「悪」というものはひそんでいる。その事実を『悪の花』という詩集は、しょっぱなから読者に対して突き付けてくる。

しかしながら、というかそれゆえにこそ、「悪」というものはいっそう甘美なものに思えてくるだろう。それに対して、「善」というものは、画一的で退屈な感じがしないこともない。例えばこれまでテレビを賑わしてきたヒーローたちのことを考えてみればよく分かる。ウルトラマンが格好良いと言えないこともないけれど、ウルトラの父・母・兄弟たちと皆お互いに良く似ていて、一同に会してしまうとゴージャスというより滑稽だ。それよりもバルタン星人やゼットンやカネゴンたちの個性的な姿に心躍らせてしまう。ウルトラマンだけじゃなく、仮面ライダーも鉄腕アトムもポワトリンもアンパンマンもドラゴンボールもセーラームーンも、皆結局のところ正義を目指して戦い続けるだけで、良い子の味方ではあるけれど、あなたが思春期にかりそめの善の疑わしさに気付いてしまった時から、その魅力も半減してしまっているだろう。それと比べれば、デビルマンやバットマンのような悪の性を背負ったアンチ・ヒーローのほうが、まだ幾らか格好良い。「男性的な美の最も完全な形態はサタンである」とボードレール自身も書いている。

それにまた、「善」というものは秩序を求めるがゆえに、最終的には単一の価値観への帰属を全ての人々に求めることになる。それゆえに、「善」というものは、「独善的なもの」に姿を変えて、多数派が少数派を抑え込むための政治の道具に利用されることも少なくない。とりわけボードレールが生きていた19世紀フランスの時代背景を考慮すると、新たに力を増してきたブルジョワ階級のお金持ちたちが、自分たちの都合が良いように政治を行うための偽善的な「道徳」に立ち向かうための手段として、この詩人にとっての「悪」というものがあったように思えてくる。それゆえに、ボードレールは『悪の花』というタイトルを考え付く前に、『レズビアン』や『レスボス』(注・女性同性愛者が住むと言われた島。レズビアンの語もここから来る)というタイトルを考えていたのだろう。物質的な富の増加を目的として経済活動を行う近代以降の人々にとって(もちろん現代人にとっても)、生産というものは「善」である。したがって働き手が増えれば増えるほど、生産活動も高まるのだから、子どもを産むことも「善」である。それに対して同性愛というものは、お互いの刹那的な充足を目的とするだけで、より良い未来のための生産活動というものにまったく貢献しない。同性愛は、たんに猥褻でけしからんというだけでなく、その精神において、資本主義社会の精神を根底から揺るがしかねない反逆的なものなのである。実際、1857年に『悪の花』が風俗壊乱の罪で有罪判決を受けた際、削除を命じられた詩篇6篇の中には、「レスボス」「地獄落ちの女たち」という長篇詩2篇が含まれており、同性愛の問題が同時代の多数派が主張する「善悪」の問題に大きくかかわっていたことは明らかである。

しかし「悪」と言えば様々な形がありえるのに、どうしてボードレールは当初、同性愛を詩集のメインテーマに持ってこようとしたのだろうか。まず一つには、当時の社会において、同性愛というものが21世紀の今日よりもはるかに強烈なタブーとされていたことが挙げられる。だがそれだけではなく、おそらくは、レズビアンというものが「詩」そのものの比喩にもなりえるからではないだろうか。同性愛が生物学的に何の生産性をもたらさないように、詩というものも人類の経済活動に対して何ら貢献するものではない。19世紀中ごろのフランスでは、新聞というメディアの発達により小説家という職業が誕生し、面白い小説を載せた新聞は飛ぶように売れ、小説家は資本主義社会のなかで巧みに生きることができた。しかし、詩はけっして飛ぶように売れるものではない。詩を味わうためには、まず心を落ち着かせ、何度も心の中で反芻し、それがある日突然、自分の中で意味を持つのを待たなければならない。その意味では詩というものは実に豊かなものである。たった一つの14行詩で、一生かかっても汲みつくせない喜びを与えてくれる。しかしながら資本主義的価値観においては、このような豊饒さはかえって不毛性と呼ばれる。なぜなら詩はお金を生み出さないからだ。極論を言うと、一度素晴らしい詩篇に出会ってしまった読者は、その詩篇に魅了され、満足してしまい、新たな詩篇をあえて買い求めようとはしなくなってしまうかもしれない。それでは新聞も本も何一つ売れはしない。このように、詩の豊かさは資本主義の理念とは相いれないものであり、その精神的豊饒さと物質的不毛さの逆説的な関係性が、同性愛のありかたと一致しているのである。そこから次のように言うことができるだろう。資本主義社会において、同性愛と同じく、詩も「悪」なのであると。

ただしそのような「悪」はけっして普遍的な「悪」であるとは言い難い。あくまでもボードレールが生きた19世紀中葉の第2次帝政下にあるパリのような(そして現代の多くの国のような)資本主義社会の倫理観に照らし合わせた時、「詩も悪の一つ」であるという極論が成り立つというだけである。そのような現代社会にとっての「悪」ではなく、時代や国を越えて、人類にとって普遍的な「悪」もまた、『悪の花』では数多く描かれていることにも注意する必要があるだろう。たとえば「人殺しの酒」では、自分の妻を殺した男が語り手となり、「聖ペテロの否認」では、ペテロの口を通して神に対する非難が述べられる。「殉教の女」では情事の最中に殺されてしまった女の屍が描写され、「ある聖母へ」では愛する女性に対するサディスティックな願望が表明されている。道端で見つけた犬の死体を描写した後、恋人に向かって君もやがて同じように朽ちていくと言う「腐屍」は、そのリアリティー溢れるグロテスクな描写そのものが読者の嫌悪感を意図的に掻き立てるものであり、詩篇の存在自体が悪趣味な犯罪的行為だと言うこともできるだろう。そのような詩篇によってボードレールは意識的に当時の「詩」という観念においてタブーとされてきた題材を取り上げ、お花畑でほほ笑む乙女の姿だけが詩じゃないんだ、と問題提起を行っているように思われる。実際ボードレールはその後エドガー・ポーの影響のもと、詩の目的から、善悪という道徳的な問題を切り離した「純粋詩」の概念を確立することになる。ただし、『悪の花』の詩篇の大半が書かれたとされる1840年代において、若かりしボードレールがどれだけ「美」と「悪」の関係について意識的だったのかは定かではない。もしかすると反逆的な20代の青年として、良識家ぶった年寄り連中をあっと言わせてやりたいという気持ちも多分にあったのかもしれない。

ところでボードレールと同じ1821年に生まれたロシアの文豪ドストエフスキーの名作『カラマーゾフの兄弟』の中で、二男イワン・カラマーゾフは「神がいなければ善行も存在しない。したがって全てが許される」という命題を提示している。ここにもやはり、「悪」の問題が現れているだろう。神様がいないなら、正しいことをしても報われないのと同様に、悪いことをしても罰せられないことになってしまう。ここに、信仰を喪失した近代以降の人類が絶えず脅かされている不安が表現されているだろう。さて、ドストエフスキーと同い年のボードレール、そしてまた、『カラマーゾフ』の中で批判の対象となっている物質主義を信奉する西洋文明の真っただ中である19世紀フランスに育ったボードレールだが、彼もまた、イワン・カラマーゾフの不安を共有しているように思われる。「赤裸の心」(Mon
coeur mis à
nu)と題された一種の箴言集の草稿に、ボードレールは次のように記している。「真の文明の理論とは。それはガスや蒸気の中にも、回転テーブル(訳注・心霊術用)の中にも無い。真の文明の理論は、原罪の痕跡の減少の中にある。」科学や産業の進歩に酔いしれ、自分たちが完全無欠な存在であると自惚れる現代人は、自分たちが人間という罪深い生き物であることを忘れてしまっている。彼が「悪」をことさら強調して見せるのも、文明と人類の進歩とを信奉する同時代人に、我々人間が罪深き存在であることを、すなわち原罪を抱えた存在であることを思い起こさせるためということになる。詩篇「救われえぬ者」の最終行の「悪の中にいるという意識!」という表現が示しているように、ボードレールが『悪の花』によって描こうとしたのは、「悪」そのものだけではない。自らのうちに「悪」の存在を感じ取っている自意識の働きそのものを描こうとしているのだ。

このように、ボードレールにはキリスト教徒としての側面もある。しかしながらそのように結論付けてしまうと、ボードレールという詩人を一人の説教師にしてしまうことになる。だがボードレールは敬虔なカトリック教徒だったわけではなく、彼にとっての「神」の存在は多義的なものだったようだ。キリスト教的一神教の神を念頭に置いていることもあれば、ギリシャ神話のような複数の神々を想定していることも、もしくはイワン・カラマーゾフのように神の存在を否定している時もあるように思われる。神のいない世界において、全ては虚無でしかないのだろうか。そのような不安をボードレールは決して直接的には表現しない。しかし、彼の詩の中には、特に晩年に近付くにつれて、虚無の戦慄がふと姿を見せている。ボードレールにとっての「悪」とは、そのような虚無から逃れるための方法ではなかっただろうか。それはちょうど、この宇宙の誕生になぞらえることができる。宇宙誕生以前の虚無から物質が作りだされたのは、それと等価のマイナスの価値を持った反物質が同時に作りだされたからだ。そのように、ボードレールの「悪」も虚無から有を創り出すための方法であったと見なすことができるのではないだろうか。ボードレールは「善」というものを直接表現したりはしない。しかし、「悪」を描き、それが「悪」であると意識する心には、善悪を判断する倫理観が必然的に存在しているだろう。天上の星々を求めて飛翔する代わりに、湖水に映った月の姿を求めて、深淵の奥へと沈みこんでいくように、ボードレールは善を思いつつも悪を求めていくのである。

さて、ここまで「mal」という言葉を「悪」と訳して論じてきたが、しかしながらフランス語のmalという単語は、例えば「歯が痛い」(J’ai
mal aux dents)という表現にも用いられるように、「苦しみ」や「痛み」といった意味でもある。次の詩篇「いつも同じく」の中で「不幸」と訳した原文もまた「mal」である。

>― 僕らの心が一度収穫を済ませてしまえば、~
生きることは不幸でしかない。それは誰もが知る秘密(…)。

『悪の花』に描かれているのは「悪」だけではない。僕たち誰しもが共感できるような普遍的な不幸、生きていくなかで避ける事の困難な苦しみを題材として、そこから詩を紡ぎだすという何とも伝統的な文学作品という一面もある。とりわけ注目したいのは、『悪の花』第2版で追加された「パリ風景」の章や、さらには『パリの憂鬱』において、ボードレールがパリという近代都市に生きている名もない人々が背負い込んだ「不幸」に対して敏感な感受性を向けているということだ。「白鳥」や「小さな老婆たち」といった詩篇では、アフリカの祖国を離れ、パリに生きる黒人女性や、公園にたたずむ皺だらけの老婆のような、まさにボードレールが生きた社会における弱者の悲しみが描かれている。当時の皇帝ナポレオン3世は、対外的には帝国主義を貫き戦争を繰り返していたが、その治世においては、社会主義思想にも精通し、自ら率先して内政を行い、貧民問題の解決に力を注いでいた。そのようにして人々の「不幸」は統計的な数値においては減少したということができたとしても、一人一人の人間が抱え込んだ「不幸」の言葉にならない思いは、決して癒されることがない。そのような行き場のない悲しみを掬い上げて、詩という言葉によって表現することが詩人に課せられた使命だったのではないだろうか。

以上、サタンへの憧憬から道行く他人への共感まで、ボードレールにとっての「悪」が持つ様々な側面を見てきた。近代詩の祖と呼ばれるボードレールだが、その「悪」の認識においても多面的であり、その感性においても近代人的の矛盾を抱えた本質を体現しているといえるだろう。

最後に、ボードレールの「悪」という問題について興味をもった方のために、幾つか本を紹介しておこう。

-『ボードレール全集』第1巻、阿部良雄訳、筑摩書房、1983年、663-695ページ、「付録・悪の華(初版)裁判の概略」。(筑摩文庫版の『ボードレール全集』ではなくて、単行本のほうなので注意。たいていの図書館に置いてあるはず。)
-ジャン=ポール・サルトル『ボードレール』、佐藤朔訳、人文書院、『サルトル全集』第16巻、1956年。
-ジョルジュ・バタイユ『文学と悪』、山本功訳、筑摩書房、筑摩叢書364、47-61ページ、「ボードレール」。(筑摩で他の版もあり。)

『超・ボードレール入門!』 ― その3「悪について」 ― 終わり。

執筆、2012年01月17日