『超!ボードレール入門』04「詩人は彼女たちを愛したのか」

その4「詩人は彼女たちを愛したのか」

 詩人は彼女たちを愛したのか?

 ボードレールは彼女たちを愛したのだろうか?
彼女たち、つまり、ジャンヌ・デュバルや、サバチエ夫人、マリー・ドーブランといった詩人の人生に影を落とした女性たちを。そしてまた、そのような恋人たち以上に密接な関係を、文字通り生涯にわたって詩人が保ち続けた、詩人の母であるオーピック夫人を。さらには通りすがりの女性や、やぶにらみのサラや、踊り子のローラや、名もなき売春婦たちを、はたして詩人は本当に愛したのだろうか?

 いわゆる「出オチ」になってしまうけれども、結局のところ、そのようなことは後世の私たちには判断しようがない。他人が誰をどのように思っていたのかなどということは、本当のところ私たちにはけっして知ることができない。たとえ手紙の中で「愛している」と書いてあってもそれが事実とは限らない。真実は人それぞれ墓場の中まで持っていってしまうものだ。

 もちろん、ボードレールと彼女たちとの間に存在する客観的な事実を出来る限りつぶさに調べることで、ボードレールの心情を想像することは、可能である。そしてそのような研究がこれまでにも随分たくさんとなされてきたように思う。そのような詩集の読解にも大きな影響を与える知識は、実証的研究の成果であり、詩人と彼女たちの関係を調べることはけっして無益なことではない。

 たとえば、1852年から1854年にかけて何度も、ボードレールは匿名で自作の詩篇を添えた恋文をサバチエ夫人に宛てて送っており、計7篇に達するその詩篇は1857年発表の詩集『悪の花』初版においても収録されることになる。具体的には、『悪の花』第2版で、41番から46番に位置する「彼女の全て」「今宵、君は何を語る(42)」「生きる松明」「可逆性」「告白」「霊的な夜明け」および有罪宣告を受けた「あまりに陽気な女へ」がこれにあたる。さらには1857年にボードレール自らがサバチエ夫人に告げたところによると、『悪の花』初版の「84ページと104ページとの間に挟まれた詩篇はすべてあなたのもの」であるとのことなので、続く「夕暮れのハーモニー」と「香水瓶」もこれに当たることになる。

 『悪の花』の中にはサバチエ夫人詩群の他にも、女優マリー・ドーブラン(彼女は結局、ボードレールから離れ、テオドール・ド・バンヴィルという詩人と結ばれることになる)に捧げられたとされる詩群、そして愛憎を分かち合いつつも生涯けっして完全には離れることのなかった混血の女性ジャンヌ・デュバルに宛てられた詩篇群とがあり、この3つの詩篇グループが『悪の花』の中核をなす章「理想と憂欝」の大部分を占めている。

 少し整理をしておくと、『悪の花』第2版の内、22番「異国の香り」~38番「幻影」がジャンヌ・デュバル詩篇、41番「彼女の全て」~48番「香水瓶」がサバチエ夫人詩篇、49番「毒薬」~57番「ある聖母へ」がマリー・ドーブラン詩篇ということになる。もちろん研究者の間ではこの分類についての細かな議論があるのだが、おおまかなところでは合意ができている。

 この3人の女性たちに宛てられた詩篇群に加えて、詩人が母親に宛てた手紙から、『悪の花』の中には母親オーピック夫人(親子なのに名字が違うのはボードレールの実父の死後、母親がオーピック氏と結婚したため)に捧げられた詩篇が2篇あることが知られている。「忘れはしなかった(99)」と「高潔な心を持ったあの女中」とがこれに当たる。それ以外にも、『悪の花』の中にはフランス語原題で「遵~」(~へ捧ぐ)という形式をとったものが少なくない。「クレオールの婦人へ」「赤毛の乞食女へ」「過ぎ行く女へ」の3篇がこれに当たり、ラテン語で書かれた「我がフランシスカへの讃歌」も一人の女性に宛てられた詩篇としての形式をとっている。

 そのようにして、すこし大げさに言ってしまうならば、『悪の花』という詩集は、けっして孤独で陰鬱な男がつづった独り言ではなく、ペトラルカやロンサールといったルネサンス期の大叙情詩人の伝統にのっとり、愛する女性たちのために書かれたラブレター集であると言うこともできる。時おり、ボードレールは「女嫌い」(«
mysoginie »)だったという表現を目にすることがあるが、これは必ずしも適切ではない。憎しみの裏には愛情があり、愛情の裏には憎しみがある。ボードレールは、慈愛の心に満たされた聖人ではなく、「汚れちまった悲しみ」(by中原中也)を抱えた現代人の一人として、彼女たちに対する愛と憎しみとをいっしょくたにして、称賛とも罵倒ともつかない言葉によって、屈折した心の内をその歪んだ襞とともに提示しているのだ。

>あの残虐な書物の中に、私は私の心情のすべて、私の情愛のすべて、(中略)私の憎悪のすべてをつぎこんだと、あなたに言う必要があるでしょうか? (1866年2月18日、ボードレールによるアンセル宛ての手紙より)

 おや、冒頭で私は「ボードレールが彼女たちを愛したのか」は分からない、と書いたものの、今度は「ボードレールは詩篇の中に(憎しみとともに)愛情を注ぎこんでいる」というようなことを書いている。それならば、やっぱり詩人は彼女たちを(憎しみつつも)愛したのだろうか?
いや、必ずしもそうは言えない。重要なのは、現実世界を生きたボードレールと、『悪の花』や『パリの憂鬱』の中に描かれる「私」とを区別することではないだろうか?
一個人としてのボードレールが彼女たちを愛したのかは分からない。他人の心の中には誰ひとりとして入り込むことは出来ないのだから、ボードレールという人間の頭の中に、「愛」という想いがあったのかどうか、本当のところ、私たちだけでなく、詩人の恋人たちや母親さえも、決して知ることはできないのである。(ああ、それは丁度、あなたがあなたの隣人の心の中を覗き見ることができないのと同じように。)それに対して、『悪の花』や『パリの憂鬱』において現れている「私」が、彼女たちを愛したのかどうかという問題はどうだろうか?

 まず確認しておかなければならないのは、作品中に現れる「私」は実在の人物ではない、ということである。ボードレール自身も実際の自分自身と詩の中での「私」とを混同しないでほしいとこぼしているように、叙情詩における「私」というのは、作者である詩人の分身でありつつも、人類にとって普遍な感情を語る存在であり、読者一人一人が感情移入することができるように、詩人本人に特有のことがらはフィルタリングされている。(コーヒーに喩えると、フィルターでろ過したコーヒーが叙情詩の「私」、残った粉が現実の作者に固有の属性にあたる。)叙情詩の「私」は、実のところ現実世界には存在しないフィクションの存在であり、それゆえに読者は自分の頭の中で自由にイメージすることができる。漫画の中の素顔を隠した謎のヒーローや小説の中の登場人物に、自分の顔や知り合いの顔を補って想像を膨らませたことがあるのは私だけではないはずだが、叙情詩における「私」というのも同じようにして想像力による補完を読者に対して促してくる。ただ、叙情詩の「私」において、謎にされているのはその素顔や肉体的特徴だけではない。その「私」がどのような生活を営んでいるのか、何歳くらいなのか、どのような友人や家族がいるのか、そのような人間一人ひとりが必ず持っているはずの属性すべてが、叙情詩の「私」からは消し去られてしまっている。それゆえに、その「私」に血と肉を与えるのは読者一人ひとりなのだ。詩篇の読者であるあなたが詩の「私」を生きることにより、「私」は生きることができる。

 だからこそ、『悪の花』や『パリの憂鬱』において現れている「私」が彼女たちを愛したのか、という問いかけは、読者である私たち一人ひとりに対して跳ね返ってくることになる。詩における「私」が、読書のたびに、詩作品と読者であるあなたとの共同制作で作られるのだから、「私」が彼女たちを愛しているかどうかは、あなた自身の作品に対する姿勢にも委ねられることになる。『悪の花』における詩人が彼女たちを愛するためには、まずは読者である私たちが、この作品を愛し、そこに現れる「私」を愛する必要があるのではないだろいうか。

 そのような恋愛における男女の関係と、読書における作品と読者との関係(さらには芸術の創作における対象と芸術家との関係)との間にある類似関係(アナロジー)は、「火箭」と名付けられた箴言集(アフォリスム)において、「芸術とは何か?
売春。」というあまりに簡潔な表現の中にも読みとることができる。しかしこの表現はあまりに簡潔すぎて、どのように理解すればよいのかいささか悩んでしまうところだ。そこで、ボードレールの詩作品から、恋愛と読書行為との重ね合わせを感じ取ることができるものとして、散文詩集『パリの憂鬱』より「貧しい者たちの眼」を見てみよう。

>ああ! あなたはどうして私が今日、あなたを憎んでいるのか知りたいのだね。

という一文から始まるこの詩篇は、それこそ「ボードレールの女嫌い」を証明するかのような作品として読まれてしまいかねないが、だが同時に、この詩篇が、ある女性に対する語りかけとしての枠組み、さらにはその女性に対して書かれた手紙としての枠組みをとっていることに注目しよう。それによって、読者が作品を「読む」という行為と、恋人である女性が語り手の手紙を「読む」という行為が重ねあわされているのだ。さらには、

>私は視線をあなたの視線の方へと向けて、愛しい人よ、そこに私の思考を読もうとしたのだ。

という表現も半ばにあり、自分の感情を恋人に投影しようとする行為が、「読む」という単語を用いることで、読者が自分の心情を叙情詩の「私」の中に投影して読もうとする行為にも重ねあわされている。

そのようにして「恋愛=読書」というアナロジーを意識しつつ、ボードレールの作品を読んでみると、恋愛について語っているように一見感じられても、実は詩人と読者との関係についても語っているということが見えてくる。最後に思い出しておこう、『悪の花』という詩集は、様々な女性たちに捧げられただけではなく、冒頭に置かれた詩篇のタイトルが示しているように、「読者へ」宛てられたものでもある。

>― 偽善的な読者よ、― 僕の同類よ、― 僕の兄弟よ!

はたして私たちは、共感と侮蔑の混ざり合った詩人のこの挑発的な言葉に対して、どのように向き合えばよいのだろう?

『超・ボードレール入門!』 ― その4「詩人は彼女たちを愛したのか」 ― 終わり。

執筆、2012年04月25日