モーパッサン
『向こう見ずな女たち!』序文

Préface de Celles qui osent !, 1883



(*翻訳者 足立 和彦)

「向こう見ずな女たち」冒頭 解説 1883年10月発行、ルネ・メズロワ René Maizeroy 著『向こう見ずな女たち!』 Celles qui osent !(Paris, Marpon et Flammarion)に寄せたモーパッサンの序文(原題「敢えてする女たち!」を意訳した)。
 著者ルネ・メズロワの本名はルネ=ジャン・トゥーサン男爵 baron René-Jean Toussaint (1856-1918)。軍を除隊後に文学の世界に入り、風俗小説を数多く手がけ、しばしば裁判沙汰を起こしもした。『ラ・ヴィ・モデルヌ(現代生活)』、『ジル・ブラース』、『フィガロ』、『シャ・ノワール(黒猫)』といった新聞・雑誌に寄稿し、モーパッサンとは1880年頃に知り合ったと思われる。モーパッサンは前年、メズロワの作品集『愛するという病』Le Mal d'aimer に書評「読書つれづれ」(1882年3月9日『ゴーロワ』)を記し、1888年にも『偉大なる青』La Grande Bleue に序文を寄せている。
 時評文執筆者 (chroniqueur) モーパッサンお得意の恋愛論が気軽な口調で語られた一文。ここでの「我々」は独身男性のみを含んでいる。(男の)浮気の肯定と結婚に対する揶揄、欲望は叶えられるまでが花といった議論は、他の時評文にも繰り返し語られるところである。
 一方で、偽善を排し、あるがままの現実を描くこと、それこそが、レアリスム以降、自然主義時代の文学者が掲げた命題であった。性愛について率直な言葉で語ること(現実には常に検閲の壁が存在した)は、「誠実な」作家の義務であるということを、これもモーパッサンは繰り返している。それは「書くことの自由」を求める作家の権利要求であったし、その意味でメズロワの「誠実さ」を称賛するこの序文も、諧謔の陰に作者自身の文学観を語っている。二人がかつて「味わった」という詩篇は、あるいはモーパッサン自身の作品だったのかもしれない。


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 『向こう見ずな女たち!』 親愛なる友よ、君のタイトルとこの書物には大胆なものがあるね。僕は誰よりも先に君の作品を読んだ、いつでも君のものを読む時に感じるこの喜びをもって。微細で、彩りに満ち、香り高く、複雑な君の芸術を僕は好んでいるし、お陰で感覚的な刺激が増幅され、思考の内密な奥底において、自分の内に存在するとは思ってみなかったようなたくさんの小さな琴線が震え出す。君の書物全部の中でも、恐らくこの本が、類稀で繊細なる君の作家としての資質を、最も完全に知り、味わうことのできるものだろう。君がここで述べていることが僕に一連の内省をもたらすので、僕はといえば、どんな些細な点に関しても、書物全体に関してと同じように、君と一緒に恋愛について語りたい気になる。それというのも、『向こう見ずな女たち!』の中では恋愛が、それも大胆な恋愛が問題になっているのだからね。
 しばしば君は、感傷的な恋愛について、現実にはそれは交接が身を隠す偽善でしかないわけだけれど、その繊細さに驚かされるような議論を展開させたものだった。でも君の最新巻の中では、たくさんのものが、その誠実さの点で僕の気に入った。だからといって、我々が恋愛について理解しあうことには決してならないのだけれども。
 あの心地よい仕事が、女たちの人生の中で大きな位置を占めていること、そのことを僕は理解するし、それというのも彼女たちには他にすることがないからだ。僕が驚くのは、一人の男性の人生においても、それが美味な食事や、人がスポーツと呼ぶものと同じような、たやすく取り換えられる時間つぶし以外の何物かになりうるということの方だ。貞節とか、忠実とかいうのは、なんという馬鹿げた考えだろう! 一人よりも二人、二人よりも三人、三人よりも十人の女にもっと価値があるわけではない、という議論に僕が納得させられることは決してないだろう。他の女たちのところよりも頻繁にある一人の女のところへ戻っていく、それは自然なことであって、自分の好きな料理を頻繁に摂るのが自然なのと同じことだ。けれども、一人の女しか大事にしないというのは、牡蠣好きが一年中、毎度の食事の度に、もはや牡蠣しか食べなくなるというのと同じくらいに、驚くべき、非論理的なことのように僕には思われる。
 貞節や忠実さというものは、気まぐれや、不意の出来事の内にある魅惑を、恋愛から奪い去ってしまうだろう。
 例えば、女性の心は、我々のものとは大きく異なっているのだし、愛情においては、女たちの方が我々よりも忍耐強い理由も、僕には理解できる。
 我々といえば、我々は「女性」を熱愛するのであり、束の間、その内の一人を選ぶとしても、それは彼女たちの種全体に捧げるオマージュなのだ。赤毛の女を溺愛したら、それは彼女が赤毛だからで、ブロンドであれば、ブロンドだからという理由だし、ある女は心まで届くような鋭い視線のため、別の女は神経を震わせるようなその声のためである。こちらの女は真っ赤な唇のため、あちらの女は体の線の曲がり具合のため。けれども、ああ、我々には一度にこれらの花全部を摘むことはできないので、自然は我々の内に恋心を、「束の間の熱中」、「我を忘れた気まぐれ」を与え、それが我々をして、彼女たちを順番に欲望するように仕向け、そうして狂熱の最中において、それぞれの女の価値を高からしめるのである。
 さて、我々にあっては、狂熱とは期待の期間だけに限定されるに違いないように思われる。欲望は満たされるや、未知のものを消し去り、恋愛の最も大きな価値を奪い取ってしまうのだ。
 征服された女は、一度ならず、我々の腕の中では全ての女がほとんど同じであることを、我々に向かって証明してみせる。とりわけ、絶えず夢の中の幻想を追いかける理想主義者たちは、所有した日の翌日にはいつも、地面に倒されることになるのではないだろうか? 恋愛に求めることのより少ない我々はといえば、それが知性あり気難しい男たちに与えてくれる僅かなものに対して、恋愛に一層感謝する権利があるだろう。
 忠実さは結婚か、あるいは束縛に行き着く。ああした長期間にわたる関係以上に、わびしく痛ましいものは人生に存在しないだろう。
 それを真剣に捉えるのであれば、結婚は一撃にして、新しい欲望の可能性、来たるべき愛情の一切、翌日にはどうなるか分からない気まぐれ、出会いのもたらす魅惑の一切を消し去ってしまう。さらには、夫婦を嘆かわしい日常に釘づけにするという不都合まで存在する。というのもどんな夫が、妻と一緒に、やがては愛人たる男が実践するような、甘美な自由をあえて求めるというのだろうか。
 そしてそこにこそ、その点で一致しようではないか、恋愛の一番の褒美が、すなわち大胆なキスが存在するのである。恋愛においては、いつでも敢えて、敢えて行わねばならない。もしも愛撫において我々が夫よりも大胆でなかったなら、もしも夫婦間の夜の、平凡で、単調で、粗野な習慣に満足していたなら、我々が気持ちのよい愛人を得ることはどんなに少ないことだろう。
 女というものはいつでも夢見ている。いつでも自分の知らないもの、疑っているもの、見抜いたものを夢見ているのである。最初の抱擁の最初の驚きの後、彼女はまた夢見始める。彼女は本を読んだし、本を読んでいる。意味の曖昧な文章に出会う瞬間に、囁かれた冗談や、偶然耳にした見知らぬ言葉が、全く知らない物事の存在を彼女に明かす。もしもアヴァンチュールについて、彼女が震えながら夫に質問したなら、彼はすぐに厳粛な様子を装って答える。「そういうことは君には関係ないのさ」ところが彼女はそういうことが、他の女たちと同じように自分にも関係があるのを理解する。他にどんなことがあるのかしら? そんなことが本当にあるというの? 謎めいて、恥ずかしく、それでいて素敵なことが、きっと存在するんだわ。だって人は小声で、でも興奮した様子でそのことを口にするもの。街を出歩く娘たちは、淫らだけども力強い手段で、自分たちの恋人を捕まえているらしい。
 夫はといえば、そうしたことをよく知っているが、真夜中の向かい合わせの秘密の最中にも、自分の妻にわざわざ明かそうとはしない。それというのも、結婚した女というのは、もちろんのこと! 愛人にする女とは違うからである。そして、男というものは「自分」の妻に敬意を払わねばならないからである。彼女は既に、あるいはこれから「自分の」子供たちの母となるのだ。ところで、合法的には敢えてよくしないことを、だからといって彼に諦める気があるわけではないので、彼はどこかの不浄な女のところへ行き、それを自分のものとするのである。
 けれども女は単純ではっきりした良識でもって、推論を始める。――人は二回生きることはないのよ。――人生は短いんだわ。――女は、二十歳で結婚して、三十で成熟し、四十で熟れすぎる。――その期限の前に、もし何もしなければ、もし何も知らなければ、もし何も楽しまなければ、永遠に終わってしまう。夫婦の歓びはもう汲みつくされた。彼女はそれに倦んで、うんざりしているのだ。――それじゃあ――それじゃあ――恋人を? どうしていけないというの?――あのこと、不貞において「あえて行われること」は、きっととても魅惑的に違いない!
 ひとたび考えが、欲望が彼女の頭に生まれてしまえば、淪落の日は近い、とても近いのである。
 彼女は遂に足を踏み出す。だがゆっくりと、少しずつ。彼女は留保をつけ、限界を設ける。これはいいわ、でも、あれは駄目。こうした区別は、ひとたび第一歩が踏み出された以上は、驚くべきかつグロテスクなものであるが、しかし一般的なものである。一人の女が決心して、恋愛を、禁じられ、洗練されていて、創意に富んだ恋愛の実験を行い始めた時から、彼女は常により一層求めるようになり、常に新しいものを欲し、いつでも探し求め、いつも違った、もっと刺激的なキスを待ち望むようになると思われるだろう。いいや、そうではないのだ。そこで道徳が、奇妙で場違いな道徳が、その権利を取り戻すのである。ピストルよりもナイフで殺す方が、より罪が深いと考えるような殺人者を君は想像できるだろうか? 彼女たちはといえば、魅力的で人生を退屈ではなくさせてくれることの、全部に挑戦するわけではないのである。
 僕は望むのだけれど、もっともそれは結構なポルノグラフィーということになるだろうが、誰か詩人が、それも真の詩人が、いつの日か、大胆で情熱的な詩句でもって、愚かな者たちを赤面させるようなああしたことを歌い上げてほしいと思う。そのためには粗野な語句も、卑猥な冗談も、ほのめかしも必要ない。一連の単純で率直、そして十分に誠実な小詩篇があれば十分なのだ。
 君はあの詩句を覚えているだろうか、忌まわしいことで評判で、けれども愛撫のように心地よかった詩句を、僕たちがしばしば味わったことを?
 君は散文によって、そうした種類のものを作ってみせてくれたところだ。
 馬鹿者たちには叫ばせておけばいい、そして続けるんだ。
 親愛なる気持ちをこめて握手を。
ギ・ド・モーパッサン

ルネ・メズロワ、『向こう見ずな女たち!』、マルポン、フラマリオン書店、1883年




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