『超!ボードレール入門』01「有限の中の無限」

その1「有限の中の無限」

さて、第一回目はボードレールの生涯について話したりするべきだろうか。いやいや、そんなの別に面白くない。僕が語りたいボードレールの一番の魅力から語らねば。それじゃあ、特に最近取り組んでいるテーマの一つ、「有限の中の無限」というやつについて話すことにしよう。

「有限の中の無限」っていうのは何なのだろう。L’infini dans le
finiってのがフランス語だけど。人間ってのは、無限なものを夢見る存在だ。無限ってのは、ただ単に「無数の数だけある」って意味じゃなくて、「果てしない」、「限りがない」っていう風にも訳せる。だから永遠、っていうのも果てしのない時間だから、一つの無限だって言える。海をぼんやりと眺めているとき、いったい僕らは何を見ているのだろうか。ただ水平線をぼんやりと眺めて、水平線の彼方へと思いを馳せていて。そういう時、僕らは水平線を見ているのではなく、そこに自らの無限への憧れを重ね合わせて夢見ているのではないだろうか。他の例え。不老不死を願ったことのある人は少なくないはず。たとえ自らの命が永遠に続くことを願わないとしても、愛する家族や恋人との幸福な関係が、永遠に続けばと一瞬たりとも願ったことのない人などいないはず。結局のところ、僕らは夢を見続ける生き物なのだ。宇宙の果てを探す物理学者たちのように、なにかを果てしなく求めてやまないロマンチックな側面が、きっとどんな人間の中にも必ず少しはあるだろう。

でも、この現実は残酷で。この肉体は力なくて。人生なんて限界に溢れている。人間には無限の可能性が溢れているなんて残酷な嘘を大人たちは何も知らない小学生たちに教え続けずにはいられないけど、少年がいて夢が破れる、それが誰しもが味わう現実だ。君のことを永遠に愛するよ、って言ったって、どうせ数年後には別れてしまう。たとえ死ぬまで愛していても、それはけっして永遠なんかじゃない。魂の不滅を信じない限り、永遠に愛するなんてことは出来ないのだ。そんな切ない現実は嫌だ、何からも、あらゆるものから逃げ去って、どこか、まったく違う世界へと、遠くへ、遠くへ逃げ去りたい!
なんて思ってみたところで、今じゃ地球はインターネットの網で縛られて、宇宙からは幾つもの人工衛星が地上の生活を観察し続けている。全てのものから逃れさるなんていうマイナス思考な無限願望も、地球という有限の空間に67億の人間がひしめいている今の世の中において、とうてい成し遂げることは出来ない。

ここで整理。僕らは無限に憧れる生き物だ。でも世界は有限だから、その無限の憧れは叶えられない。

だから、現実世界において、無限への欲求を実現させようとしても、そんなことは無理なのだ。でも、僕らには想像力という強い武器がある。想像の世界でなら、無限という観念は確かに存在することが出来る。だから有限の世界の中でも、主観的な意識においては、無限へと僕らは辿り着くことができる。

整理2。想像力は有限の中にいても無限を見出すことが出来る。

こういった無限に対する人間の欲求は、もちろん昔から人間の芸術の中心的テーマであったし、特に18世紀末からのドイツでのロマン主義の芸術家たちにとって重要な主題となっている。ドイツを代表する作家にゲーテという人がいるが、ゲーテの『ファウスト』のテーマも、無限への希求にあると思う。悪魔と契約をしたファウスト博士は、「時間よ止まれ、お前(=時間)は美しい」と思う瞬間があったなら、それくらいに自分が満足する瞬間があったなら、この魂を悪魔に差し出すことになる。死んでからの天国での永遠の幸せなんかよりも、もっと人間的な無限、この現実の生の世界での無限の幸福のほうが欲しい。というのがファウスト博士の望みだった。

ボードレールの少年期には既にフランス語に翻訳され読まれていた、このドイツ文学の金字塔『ファウスト』のなかにも既に現われていた感覚。つまり、永遠なんていらない、永遠なんかよりももっとすごい喜びを含んだ瞬間を感じられれば、それで良い、という感覚。これがボードレールにとっての「有限の中の無限」に近い。そしてボードレールは、この感覚をより一般的なものへと展開させていったのだ。有限というものが、無限への希求を邪魔している、と見なすのではなく、そもそもの前提が有限であることによって、そこに凝縮された観念は、300パーセント濃縮還元ジュースの原液のように、力強さを手に入れる。有限という枠組みこそが、僕らに無限の感覚を与えてくれるのだ。

整理3.有限の枠組みこそが、無限の観念を強める。

たとえばボードレールは、こういうことを言っている。「どうしてビルとビルの間から眺める空は、これほどまでに無限の観念を感じさせるのだろう?」視界を遮るものの一つとしてない草原の真ん中に立って見た空は、視界の限り果てしなく広がっていることだろう。それに対して、都会の中で見る空は、小さなキャンバスに描かれた風景画のように、建物によって切り取られてしまって、ちっぽけに見える。でも、たとえ上下左右を灰色のビルディングに切り取られていようとも、空というものには奥行きがある。2次元の方向では有限の空間を占めているだけであっても、3次元目の方向には視線を遮るものは何もなく、空はどこまでも果てしなく続いている。空はやっぱり無限のものなのだ。なんてことは当たり前のことなのかもしれないけど、草原の真ん中で見る大パノラマの空を見ても、その2次元での広がり、いわば、空のキャンバスの大きさに気をとらわれてしまい、空が持っている本当の広がりである、果てしない奥行きに気づくことが少ない。でも、ビルディングだとか、窓だとか、そういった枠組みによって切り取られることで、2次元方向での限界が示され、そのおかげで、もう一つの次元、すなわち奥行きの存在を気づかせることが出来る。しかも、その枠組みが視界の手前のほうに置かれていることで、囲まれている空の奥行きが、対比によって強調される。

この「有限の中の無限」というテーマは、ボードレールの詩やエッセーやら、いろんなところで色んなかたちで現われる。通りを歩けば、窓の向こうには無限の夢が明かりに照らされているかのように感じられる(「計画」)。恋人の目の中に無限が広がっているかのように感じられる(「時計」)。恋人の髪の毛の中に顔をうずめれば、そこにもやっぱり無限が、無限に広がる海を詩人は恋人の髪の中に感じる(「髪」)。距離にしてわずか数里ほどの海の眺めの中に、永遠を見出す。一枚の絵画の中に無限の思想を見出す。そして、わずか14行の詩の中にだって無限の観念を描くことが出来るのだとボードレールは言う。

つまり、人間の想像力は無限であり、この有限の世界の何処にだって、僕らは無限の観念を見出すことができるのだ。

『超・ボードレール入門!』 ― その1「有限の中の無限」 ― 終わり。

執筆、2008年11月20日