『超!ボードレール入門』05「死について」

今回のテーマは「死」。ボードレールにおける「死」について考えてみたいと思う。僕がボードレールを研究しようと決めたのも(大学の学部3年生、20歳のころかな?)、そしてそれから10年が経った現時点でも、今後も生涯をかけてボードレールの研究を続けていこう、と考えているのは、ボードレールの「死」に魅せられたからだと言ってしまっても過言ではないだろう。もちろん、それが理由の全てではないけれど、『悪の花』のなかに込められた詩人の「死」に対する意識(それは「強迫観念」と言ってしまっても良いかもしれない)が僕を捕らえ、そして恐らくはこれからも僕を捕らえ続けていくのだろうと感じている。

 さて、そういうわけで、僕はこれまでボードレールの作品を読み続け、この詩人のことを考え続けてきたのだけれど、彼にとっての「死」というのがいったい何だったのか、実のところ、いまだに僕にはよく分からないままなのである。ということで今回は、分からないなりに考えてみた僕にとってのボードレールの「死」というものを、幾つかの点に分けて語ってみたいと思う。

 そもそも、ボードレールの作品を読み進める中で、心の底から震え上がるような想いを初めてしたのは、「虚無の嗜好」という詩篇を読んだ時だった。そこには「死」という単語は直接用いられていなくても、「死」が色濃く表れている。詩篇の後半部分を引用しよう。

>愛らしき春はその香りを失ってしまった。~
~
そして「時間」が私を一分一分と飲み込んでいく。~
とてつもない大雪が凍りついた体を飲み込んでいくように。~
私はこの高みから丸みを帯びたこの星を眺めている。~
この場所に私はもはや身を隠すための小屋を探しはしない。~
~
雪崩よ、私をその転落の中に連れ去ってくれないか?

この詩句の中に、当時の僕は、やがて自分を飲み込んでしまうであろう「死」という虚無を意識した詩人の眩暈にも似た恐怖と、それと同時に、一種の無我の境地に達しようとしているその強靭な精神とを感じ取ったのだった。だが、今になってみれば、はたしてこの「虚無の嗜好」という作品が本当にそのような心情を表現した詩なのかどうか、よく分からなくなってしまっている。少し距離をとって考え直してみると、別の解釈を使用と思えば他にも色々読みようがあることに気づく。例えばこの詩を、人生に絶望して、自ら進んで死を求めようとしている者の叫び、として読むことだってできちゃうだろう。つまるところ、当時の僕は、自分の心情をボードレールの作品に投影しようとしていただけなのではないだろうか。もしくは自分が「こうありたい」と思った理想を投影していただけではないだろうか。そのような自問自答は、『悪の花』の他の詩篇や、ボードレールの他の作品を読んでいくに従って、よりいっそう高まっていくことになる。というのも、死について書かれた多様な文章を読むうちに、ボードレールがただ単に死に対して虚無主義的な、ニヒルな態度で向き合っていたとは言えないということが分かってきたからだ。

**1、救いとしての死 [#u883f652]

 ボードレールの多くの詩のなかで「死」は渇望されているものだったりする。まず、この点から整理しておこう。『悪の花』を構成する章の一つである「死」において、詩篇の語り手は生きることを拒み、自ら死を選ぼうとしている。早い話が自殺賛美だ。理由は様々ではあるが、現実を生きる苦しみよりも死が与えてくれる安楽を求める人々がそこには描かれている。「恋人たちの死」では二人の愛を永遠にするため、「貧者たちの死」では貧困の苦しみから逃れるため、そして『悪の花』初版の最後を締めくくる詩篇「芸術家たちの死」では自らの死を糧として至上の美を花咲かせるために。例として「貧者たちの死」の冒頭を引用しよう。

>「死」こそが私たちを慰め、ああ! そして生きる力を与えてくれる。~
「死」こそが生きる目的であり、そして唯一の希望

 そのような詩篇を読んだとき、僕は初め、ボードレールはあえて本心とは別の事を書いているのではないだろうかといぶかったものだった。これでは「天国で幸せになれますように」と遺書を残して自殺する少年少女と大差ないじゃないか、そんなことをボードレールが書くのだろうか?と。しかしその後、伝記や書簡集を読む中で見えてきたボードレールの姿は、実際に(例えば日本の太宰治のように)何度も自殺を企てた人間の姿であったし、晩年にいたっては酒と薬に頼って碌にまともな食事を取ろうともせず、まさに自暴自棄な自殺行為の生活を送っていた姿であった。たしかに彼が46歳にして死んでしまったのは、二十歳ごろの放蕩が招いた梅毒が原因であったのかもしれないが、その後の20数年間にわたってもボードレールは意識的に一歩一歩、死へと近付いて行ったように思えてならない。『悪の花』に描かれた「死」への渇望は、登場人物たちが抱いたフィクションとしての感情であるだけではなく、作者であるボードレール自身もまた、死を唯一の希望として生きていた人間だったのである。

 ―でも、それならば、46歳まで生きることもなかったんじゃないだろうか?
結局自殺せずに生き続けていたのは、やっぱりボードレールも死ぬのが怖かったんじゃないだろうか?―
なんて思う人がいるかもしれない。死にたいと言いつつもボードレールが生きていたのはどうしてなのか、その問いに応えるために、1860年4月に母親に宛てて書かれたボードレールの手紙を見てみよう。

>お願いだから、僕のことをあまり非難しないでほしい。考えてみてほしい、いったいどれだけ前から、いったい何年前から、絶えず僕が自殺すれすれのところで生きているかってことを。僕がそんなことを言うのは、けっして母さんを怖がらせたいからじゃない。というのも僕は自分の事を、生きるという罰を不幸にも宣告されてしまったように感じている。だから単に僕は、自分では数世紀にも等しいこの数年の間、僕が感じていることを知ってほしいだけなんだ。

「生きると言う罰を宣告された」と訳した箇所は、フランス語では「condamn醇P 醇A
vivre」となっている。辞書を引いてみると、ふつうは「condamn醇P 醇A dix ans de
r醇Pclusion」(懲役10年の刑)、「condamn醇P 醇A
mort」(死刑)というように罰の内容を伴って表現するところを、ボードレールの場合、「生きること」そのものを罰の内容として表現しているのが興味深い。ボードレールは死を望みつつも、まだ自分には死ぬことが許されていないように感じていたのだった。―でもどうしてなのかって?
う~ん、それは間違いなく、「芸術」のためにまだ自分が為さなければならないことが残されている、という崇高な意思をボードレールが持っていたからだろう。自分は芸術の女神に見染められた男。それが自分の罪だから、生き続けて芸術の女神のために働かなければならないというわけだ。それが理由の大部分だと思うのだけれど、あと、おそらくは、残りの1割くらいの理由として、禁治産者処分を受けたり、出版した詩篇が有罪宣告を受けたり、アカデミー・フランセーズ会員に立候補しても他の作家たちから十分な評価を得られなかったりといった世間の仕打ちにたいして、このままでは死んでも死にきれない、なんとか見返してやりたい、というような、崇高ではないけれども、人として、男としてごく当然の思いもあったのではないだろうか。「死」というゴールを目指しつつ、恥辱にまみれた人生を息が切れるまで走り続ける。それがボードレールの生き方だ。

**2、非・救いとしての死 [#ab101a94]

 さて、ちょっと脱線しちゃったけれど、以上のようにボードレールは「苦しみとしての生」に対する「救いとしての死」というものを意識していたわけである。でも、ボードレールという人は頭が良すぎるので、何か良いことを考えても、必ずそのアンチを考えずにはいられない。だから「救いとしての死」を願う一方で、「死」がけっして全ての救いになりはしないという正反対の主張もまた、繰返し作品の中に織り込んでいる。例えば「死後の後悔」という詩篇の最後は次のような一行で終わっている。

>―そしてウジ虫が君の肌を後悔のように蝕むだろう。

 死後の腐食によって痛めつけられていくのは肉体だけではない。死後も人間の精神が存続するならば、その精神も肉体と同じく、生前の行いについての後悔によって苦しめられ続けることになるのだ、しかも永遠にわたって。そのような「死による救済の否定」というテーマは、詩人が40歳に近付いたころからより一層色濃く作品の中に現れるようになっていく。『悪の花』第2版の新詩篇の一つである「働く骸骨」では、セーヌ川の川岸の本屋で眼にした働く骸骨を描いた版画から、死後の世界についての陰鬱な想像が繰り広げられる。

>我らにたいしては、虚無さえもが裏切り者だ。~
あらゆるものが、死さえもが、我らを欺き、~
永遠の間ずっと、~
ああ、我らはおそらく、~
~
どこか見知らぬ国で、~
荒れ果てた大地の皮をはぎ~
血の滴る素足の下、~
重い鋤を押し続けねばならないというのか?

同じく新詩篇の一つ「変わり者の夢」では、死の向こうに自分を憂鬱から解放してくれるような何か新たなものがあると待ち望んでいたにもかかわらず、死が何の変化ももたらさなかったというオチになっている。

>私はまるで見世物に待ち焦がれる子どものようで、~
人が障壁を憎むように、緞帳を憎んでいたのだった。~
そしてついに冷酷な真実が暴かれた、~
~
私は驚くこともなく、もう死んでいて、むごたらしい朝日の光に~
包まれていたのだった。「何だって、これだけでしかないのか?」~
幕は上がっていたが、私はまだ待ちつづけていた。

人によっては「死んでも生きている時と同じようにしていられるのは嬉しい」と思うかもしれないが、ボードレールのように「生きること」そのものを刑罰のように感じてしまっている人間にとっては、このオチは恐怖でしかない。しかし、ボードレールもさすがに現実においてはそのような死後の世界を想像したりはしなかったはずだ。少なくとも母親への手紙などを読む限りでは、死後の世界の存在を信じているようには思われない。(ただし、無神論的・唯物論的な人生観を持って21世紀初頭を生きる僕たちとは異なって、ボードレールは神や魂の存在を信じていたように思われる。この点はまた別の機会に論じる必要があるだろう。)前にも書いたことではあるが、現実世界におけるボードレールの信条とはまた別のものとして、『悪の花』や『パリの憂鬱』という作品世界を作り上げる上で意図的に誇張して作り上げた「フィクション」としての詩人の信条がある。もちろん、その2つの大部分は重なり合うのだが、若干のずれがあることを忘れてはいけないだろう。「死さえも我々を救いはしない」というのは、おそらく、『悪の花』の幾つかの詩篇において強調されている点の一つと言えるんじゃないだろうか。

**3、日常としての死 [#v443e5f8]

 そのような二つの異なる「死」のイメージがボードレールの詩の中では常にぶつかり合って、独特の緊張感を作り上げている。「死」は僕たちの救いになるのか、いや、救いになどならないのか、なんてことを毎日ひたすら、おそらく小さいころからボードレールは考え続けてきたのだろう。彼にとって次第に「死」を考えることは「生きること」そのものにも等しくなり、もはや「死」という観念の懐に抱かれてでなければ生きていけなくなってしまう。ちょっと無理があるかもしれないけれど、喩えるならば、嫌い嫌いと思っていた相手のことがいつの間にか好きになってしまう、なんて連続ドラマの2週目くらいにありがちな設定とも似たところがあるんじゃないだろうか。あれっ、ちょっと違うかな?
じゃあ別の喩えを一つ。砂場で砂遊びをしていた子どもが、「死」という小さな一つの観念を泥玉のような形にこさえて持っている。その泥玉はこねくり回しているうちに、周りの砂を吸収してどんどん大きくなっていき、やがては少年よりも大きくなり、しまいに少年はその泥玉の中で暮らすようになってしまう。また別の喩え。一人の少年が風船を持っている。風船のゴム膜が、内側と外側とを隔てている。初め、少年は風船の外側にいると思っていた。しかし、実は少年が風船の内側だと思っていたのが外側で、外側だと思って自分がいた方が内側だった。気が付くと自分は風船の中にいるのだった。

 「死」と「生」について考えることは、時として、このような居心地の悪い奇妙な逆転現象を引き起こす。ボードレールはもはや「生」の中を生きているのではなかった。彼は生きながらにして「死」の中にいた。「死は生の対極としてではなく、その一部として存在する。」と書いたのは『ノルウェイの森』の村上春樹だけれど、ボードレールなら、これをさらに押し進めて「生は死の一部でしかない」と修正しようとしたことだろう。J・E・ジャクソンという研究者は、この点においてボードレールを、『死に至る病』を書いたデンマークの哲学者キルケゴールに結び付けてさえいる。さてさて、それでは『悪の花』の中から、そのような「生」そのものに侵食してしまった「死」というものを幾つか見ていこう。まずは「憂鬱」と題した4つの詩編のうちの一つより。

>―僕、というのは、月に嫌われた墓場だ。~
そこでは、後悔のように、丈の長い蛆虫が這い回り、~
奴らはいつも、僕の大切な死者たちに襲い掛かっている。

ボードレールにおいて、「死」は自分の外部に存在するのではなく、自己という存在の一番奥深くに宿ったものとなっている。彼から「死」の概念を奪い去ってしまえば、後に残るのは抜け殻でしかないだろう。喩えるならば、墓荒らしにより大切な王の遺骸を盗まれてしまった空っぽのピラミッドのように。ボードレールにおいては「死」の存在こそがすべてを輝かせるものとなっている。「死」の存在のおかげで「生きる」ことにも初めて意義が認められている。そのような死生観は、現代社会のそれとはまさに正反対のものと言えるんじゃないだろうか。そこでは(というか、ここでは)「死」が巧妙に覆い隠され、どこか人目のつかない場所へと追いやられてしまっている。僕たちの暮らすこの社会においては、毎日毎日、老人ホームで、病院のベットの上で、産婦人科で、単身生活者のアパート内で、嫌われ者の「死」が密かに産声を上げているはずだが、その存在は一部の人々が知るのみで、僕たちのほとんどは、そんなこと知ることなく、毎日穏やかに過ごすことができてしまっている。

 でも、そんなことは今に始まったことではなく、19世紀中頃のフランスにおいても既に、僕らの生きる現代日本と同じように、「死」は次第に遠ざけられ、忌み嫌われていったのだった。18世紀末のフランス革命によって旧来の伝統的な価値観が否定され、近代文明というものが作られていったとするならば、「死」の隠蔽という作業もまた、19世紀における文明の急速な進歩とともに、成し遂げられていったといえるだろう。ボードレールが生きた時代は、まさに僕たちの知る「近代社会」が急速に形作られていった時代だった。そして「公衆衛生」という名のもとに、「死」が都市空間から排除され初めた時代だった。それだけに、ボードレールは、産業の発展の裏に潜んだ「死の隠蔽」という事実に対して、おそらく今日の僕たち以上に、敏感だったんじゃないだろうか。『悪の花』の中でも「告白」と題する詩編において、「死の隠蔽」そのものとまではいかないが、陽気な女性の心の奥底から秘かに漏れ出た人生への悲しみが歌われている。ちょっと長くなるけれども、その中心部分を引用しよう。

>突然、青ざめた輝きのもと花咲いた~
   気がねない親しさのただ中に、~
あなた、という、輝く快活さだけが震える~
   豊かに音を奏でる楽器から、~
~
あなた、という、煌く朝に鳴り響く~
   ファンファーレのように輝き喜びに満ちた人から、~
嘆くような調べが、奇妙な調べが、~
   こぼれ出た。その調べがよろめく様は、~
~
虚弱で、恐ろしく、陰気で、汚い少女、~
   家族たちも顔を赤らめ、~
長い間、世間から姿を隠すために~
   地下室に秘かに閉じ込めていた少女のよう。~
~
憐れな天使よ、あなたの耳障りな調べは歌っていた。~
   「この世では全てが不確か。~
どれだけ丁寧に身をつくろっても、いつだって~
   人間のエゴイスムは外に漏れ出る。~
~
美しい女性でいることは何と苦しい務めだろうか。~
   機械的な微笑の中で~
恍惚としている、狂った冷たい踊り子の~
   退屈な労働のようなものだ。~
~
人々の心の上に何かを築くというのは愚かなこと。~
   あらゆるものは崩れ行く、愛も、美も、~
結局は忘却が屑籠の中に投げ込んで、~
   永遠のなかに連れ戻す!」

 「地下室に秘かに閉じ込めていた少女」というところが強烈なイメージを喚起してくる。臭いものに蓋をするかのように、病人や老人を地下室に押し込めて、「死」の臭いから逃れているのは僕たちも同じじゃなかったのか?
空気を読んで明るく生きなければならないという強迫観念にとらわれて、暗い気持ちを押し殺しているのは僕たちも同じじゃなかったのか?
詩人は恋人の笑顔の下に隠されたそのような思いを読み取って、「ちゃんと気付いているんだよ」と歌にする。でも実は、たいていの場合ボードレールは、「死」に対してこのような穏やかな態度をとった詩人ではなかった。「人生って切ないよね。でもその悲しみはそっと胸にしまいこんで、つかの間の人生を精一杯生きて行こう。」なんて居酒屋のトイレの額縁の中に猫の挿絵といっしょに書いてありそうなことは、ボードレールの好むところのものではない。むしろ彼は率先して、「死」から目を背けようとする人たちに対して、「ほら見たまえ、この世界には死があふれているじゃないか!」と、喧しく言い立てるのだ。そのような傾向の中では、「腐屍」という詩篇が群を抜いて目立っているし、実際、当時の人々はこの詩篇のイメージの強烈さに面喰い、ある者はそれを賛美し、それ以外の大多数の人々は、「なんというけしからん詩だ!」と憤慨したのであった。いや、今日でも、この詩篇を学校で読まされた子どもは悲鳴をあげるという話だ。(僕がボードレールの勉強をしていると言うと、実際にフランス人が2人も、まったく別の機会に、そのようなボードレールの記憶を思い出して語ってくれた。)

>思い出したまえ、わが魂よ、~
  あの実に心地よい夏の美しい朝、我らが見たものを。~
とある小道の曲がり角に、おぞましい死骸が、~
  小石のまかれた寝床の上で、~
~
みだらな女のように四肢を宙に向け、~
  焼けつきながら毒を吹き出し、~
物憂げに、臆面もなく、~
  臭気に満ちた腹を晒していた。~
~
――しかしあなたも、この汚物そっくりになるだろう、~
  この恐ろしい悪臭そっくりに。~
わが瞳の星よ、わが自然の太陽よ、~
  わが天使にして、わが情熱よ!

 だが実のところ、ボードレール自身ですら、若いころに書いたこの詩篇がもたらした評判にはうんざりしていて、その後はここまでセンセーショナルな詩篇は書かなかった。もう少し大人になったボードレールはむしろ、人々が見過ごしているような小さな「死」、道端に咲く雑草のような目立たぬ「死」に注目して、誰にも相手にされなかったそのような「死」のために、言葉を紡ごうとしたのだった。その思いは自然と、「老い」に対する意識となって現れ出る。そのような意識こそが、次に紹介する「小さな老婆たち」の一節を初めとした、後期ボードレールの珠玉の詩句となって結実しているだろう。

>――あなたは気付いたことがあるだろうか? 老婆たちの棺の多くは~
子どもたちの棺とほとんど同じくらいに小さい。~
叡智ある死はその同じような棺の中に~
奇妙で心を奪う感覚の象徴を置いている。

老婆たちの棺と、子どもの棺とが同じような大きさであることは何とも意義深い。人生における対照的な存在、もっともかけ離れた二つの時期にある者たちも、「死」の前では区別なく、同じ大きさの器に収まっている。そこでは「死」はけっして私たち人間を引き離すものではない。むしろ「死」の意識こそが、私たち死すべき人間を一つに結び付けることを可能にする。

**4、超越者としての死 [#m6520aca]

 かつては、人間たちを一つに結び付ける存在として、私たちは「神」を信じていた。しかしながら、神を失った現代という世界においては、はかなく愚かな人類の上に君臨する新たな超越者の存在が必要とされていた。神でなければ悪魔なのか?
たしかに悪魔主義者としてボードレールを論じることも不可能ではないだろう。でも以前に「悪」について論じたように、ボードレールはマルキ・ド・サドのように率先して意識的に悪を求めたような人間ではない。(また、悪魔の支配は、悪魔の存在を気付かせないところにあるとボードレールも書いていなかったか?
この点は『カラマゾフの兄弟』の「大審問官」のテーマと一緒に改めて論じる必要がある。)神を讃えたり、恋人を讃えたりするかわりに、ボードレールが讃えるものこそが「死」の存在なのだ。そのような「死」の賛美は、無生物の抽象的な観念を人間のようなイメージで描くアレゴリーという伝統的な手法によって、特に『悪の花』の後期以降の詩篇において、頻繁に描かれるようになる。

>「幻想的な版画」~
~
この奇妙な幽霊がその装いとして持つのはただ~
骸骨の額の上にグロテスクに据えられた、~
カーニバルを感じさせる恐ろしい王冠のみ。~
拍車もなく、鞭もなく、駆り立てられた馬は、~
彼と同じように亡霊で、黙示録のように褐色で、~
癲癇病者のように鼻孔からよだれを垂らしている。~
空間を横切って、彼らはともに突き進み、~
運任せの足取りで無限を踏みにじっていく。~
騎士は燃えるサーベルを名のない群衆のうえに~
振り回し、彼の乗り物がそれを踏み潰していく。~
そして館を視察する王子のように、彼は~
広大で冷たく地平線もない墓場を走り回る。~
そこには白くくすんだ太陽の薄明かりのなか、~
古今の歴史を生きた人々が眠っている。~

>「死の舞踏」~
~
セーヌ川の冷たい岸辺から、ガンジス川の焼け付く縁まで、~
死者の群れは跳ね回り恍惚としているが、~
天井の穴の中で、天使のトランペットが~
不吉にも黒いラッパ銃のように口を開けているのが見えていない。~
~
あらゆる気候のもと、あらゆる太陽のもと、死がお前を愛している、~
身を捩じらせている笑うべき人類よ、

生きることは死ぬことと見つけたり。というのは『葉隠れ』の言葉であるが、ボードレールはそうは言わない。江戸時代の日本とは異なり、19世紀の大都市パリにおいては家や藩のような共同体への意識がもはや無い。近代化された社会という孤独のなかでは、ただ一人、死に直面することが余儀なくされている。しかしながら、近代文明の発展に伴い個人主義が闊歩し、かつて調和を保っていた共同体が崩壊し、多様化した価値観がいがみ合うような世界に置いて、僕たち人間を一つに結び付けてくれる超越的存在(ああ、それが神であると今さらどうして信じられようか)、それこそが、万人にもれなく与えられることになっている「死」に他ならない。そのような「死」を中心とした詩の再構築こそが、ボードレール以降の詩人たちに受け継がれていった最も重要な要素であり、現代詩の本質なのだと主張する人は詩人イヴ・ボヌフォアを初めとして決して少なくは無い。それだけに今回の文章は長文になってしまったけれども、ボードレールの「死」についてはまだまだ書くべきことが残っているだろう。特に、このようなボードレールの「死生観」が実はヨーロッパ文化の伝統に根ざしたものであることについては本当のところ詳細な解説が必要となるだろう。でもそれを始めてしまうと、けっして「超・ボードレール入門」なんて言えないような西洋文明、いや洋の東西を問わず、人間そのものの探求という大海原へたちまち出てしまう。この人生が「死」へと至る旅路であるなら、旅の途中で自分から「死」を訪ねてみるのも悪くない。『悪の花』第2版を締めくくる長詩「旅」は次のように幕を閉じる。

>死よ、老船長よ、いまこそ時間だ!錨を上げよう!~
この国は僕らをうんざりさせるんだ。死よ、船を出そう!~
空と海とがインクのように真っ黒だとしても、~
お前も知る僕らの心は輝きに満ちている!~
~
お前の毒を僕らに注いで、僕らに力を与えてくれ!~
僕らが望むのは、この炎があまりに僕らの脳を焦がすからこそ、~
地獄でも天国でも構わない、深淵の奥底へと飛び込み、~
<未知>の奥に「新しいもの」を見つけることだ!

この言葉を、以前は生に飽きて死の淵へと飛び込む末期の叫びかと思っていたが、「老船長」と呼ばれた「死」とともに死へ向かうというのでは意味が分からなくなってしまう。思えば、これまで見てきたように、『悪の花』を読み進めるという一種の旅のなかで、僕たちはいつも死の観念を旅の道連れとして、いろんな未知の景色を覗いてきたのではなかっただろうか。『悪の花』の結論はけっして死への誘いなどではない。死を胸に抱きつつ、生きようと言っているんじゃないだろうか(『もののけ姫』のアシタカじゃないけれど)。そこにこそ、僕たちが人間であるという証があり、そこには必ず未知なる何かが待っていると信じている。

『超・ボードレール入門!』 ― その5「死について」 ― 終わり。

執筆、2012年05月16日