『パリの憂鬱』16「時計」

中国人は時刻を猫の目の中に見るという。

ある日、宣教師が南京の郊外を散策していた折、時計を忘れてきたことに気がつき、一人の小さな男の子に今何時なのかを尋ねた。

天の帝国の少年は、まず躊躇した。それから考えを変えて、こう答えた。「いま言いますね。」それからすぐに彼が再びやってくると、両腕にとてもおおきな猫を抱えていた。そして人が言うように、彼はその猫の目の白眼のところに時間を見て、躊躇いなくこう言い切った。「まだ正午にはなっていません。」これは事実であった。

私の場合、麗しの猫嬢と言うにまさに相応しい、彼女の性にとっての名誉であり、私の心の誇りであり、私の精神にとっての芳香であるような人の方へと身を傾けるとき、それが夜であろうと昼であろうと、光のただなかであろうと薄暗い闇の中であろうと、愛すべき彼女の両眼の中に私は常にはっきりとある時間を見る。その時間は常に同じで、広大で、荘厳で、空間のように大きく、分や秒により分割されてもいない。その不動の時間は、時計の上には刻まれていないが、溜め息のように軽やかで、眼差しのように素早い。

もし誰かしつこい人がやってきて、この甘美な文字盤の上で視線を憩わせている私の邪魔をしたならば、もし何らかの不器用で寛容を知らぬ<霊>や時に反した<精霊>がやってきて、「そんなに熱心にお前は何を眺めているのだ? そこに時間が見えるのか、浪費家で怠け者の死すべき人間よ?」と言ったなら、私は躊躇うことなくこう答えよう。「そうだ、私には時間が見える。それは<永遠>だ!」

ご婦人よ、これこそ真に賞賛に値し、あなたと同じくらいに大袈裟なマドリガルではありませんか? 実際私はこの気取ったお世辞を飾り立てることによって有り余る喜びを手にしたのですから、私はあなたに対して、この代償として何も要求せずにおきましょう。