『現代生活の画家』第03章「世界人、群集の人、そして子どもである芸術家」

3、世界人、群集の人、そして子どもである芸術家 L’artiste, homme du monde, homme des foules et enfant

私は今日、読者の方々にある一人の奇妙な男を紹介したいと思う。その男の独自性は実に強力で断固たるものなので、それ自身で充足し、称賛を求めようともしない。彼の絵画には一枚として署名がなされていない。もしも容易に真似してしまえる、他の多くの者たちが自分たちの好い加減なスケッチの下にこれ見よがしに記しているような、一つの名前を表す文字のことを「署名」と呼ぶのであれば。しかし、彼の作品にはその輝く魂によって署名がなされているので、それを鑑賞し評価した愛好家たちは、私が今からなそうと思っている描写において易々と、それが彼の絵であることを知るであろう。群集と匿名性を大いに好むC・G氏はその独創性を謙遜にまで推し進めている。サッカレー氏という、ご存知のとおり、芸術作品に強い関心を持ち、彼自身自らの小説に挿絵を描いている人物が、ある日G氏について、ロンドンの新聞紙上で言及したことがある。G氏は自身の恥じらいに対する侮辱であるかのように、これに対し怒りを顕わにした。先日にも、私が彼の知性と才能についての批評を書こうと考えていることを知り、彼は実に尊大な態度で、自分の名前を削除し、ある匿名の人物の作品であるかのようにその作品について話すようにと私に懇願したのであった。私は慎ましやかに、この奇妙な願いを受け入れることにする。読者の方々と私とは、G氏なる人物が存在しないと信じている振りをし、彼のデッサンや水彩画を扱うときも、それについて彼が貴族的な軽蔑を主張しているのだから、例えるならば、偶然によってもたらされ、著者が永遠に無名であり続けるような貴重な歴史的文献を評価しなければならなくなった知識人たちのように、我々は振舞うことにしよう。さらには、私の良心を完全に安心させるためにも、奇妙かつ不思議な輝きを持った彼の性格について私が語るべきことは全て、多かれ少なかれ正当に、問題となる作品によって仄めかされたものだと考えていただきたい。つまり純粋な詩的仮定、推測、想像的作業なのである。

G氏は年老いている。ジャン=ジャックが執筆を始めたのは42歳からであったと言われている。おそらく、G氏が彼の脳に満ちているあらゆるイメージに捉われて、白い紙の上に、インクと色彩とを果敢に放ったのも、同じくらいの年齢のことであろう。真実を述べるならば、彼は当初、野蛮人や子どものような描き方をしていた。不器用な自分の指と、言うことを聞かない道具に苛立ちながら。私はそういった初期の殴り書きを何枚を見たのだが、今日彼を知っている、もしくは知っていると主張している人々の大多数が、そういった不可解な下書きの中に隠れ住んでいた才能に気付かずにいたとしても不名誉ではないだろう。今日、G氏は自力でこの職の細々とした技術を全て身に付け、助言なしで自身の教育を成し遂げた結果、独自の方法で強靭な巨匠になったのである。初期の無邪気さからは、豊かな才能に、思いがけない薬味を添えるためのものしか残してはいない。若い頃の習作を見つけると、実に愉快な恥じらいをもって、それを引き裂くか、燃やしてしまうのである。

10年もの間私は、その天性から大の旅行家であり大の国際人であるG氏と、近づきになりたいと願っていた。彼がもう長い間、イギリスの挿絵入り新聞に雇われていて、そこに(スペイン、トルコ、クリミアなどの)彼の旅行画をもとにした版画が掲載されていたことも私の知るところであった。その後、私は同じ場所に相当な量の即興的なデッサンを見てきたのだが、それによって他のどのようなものよりも好ましい、クリミア戦争についての詳細な日々の報告を読むことが出来たのだった。同じ新聞に、やはり署名がないのだが同じ著者による新しいバレエやオペラをもとにした幾つもの作品が掲載されていた。ついに私が彼と出会った時、まず私が感じたのは私が相手にしているのが厳密に言うと、一人の芸術家ではなく、一人の世界人であるということである。ここで、芸術家という言葉は非常に制限された意味で、世界人という言葉は非常に広い意味で理解していただきたい。世界人というのは、つまり世界全体の人であり、世界を理解し、そしてそのあらゆる機能の神秘的で正当な道理を理解する人のことである。一方、芸術家というのは、つまり専門家であり、農奴が地所に縛られているように、パレットに結びついている人のことである。G氏は芸術家と呼ばれることを好まないのだが、彼にもいくらかの言い分があるのではないだろうか?彼は世界全体に関心を抱いている。彼は、我々の球体の表面で起きているあらゆることを知り、理解し、評価することを望んでいる。芸術というものは、道徳や政治の世界にはほとんど、場合によってはまったく生きていないのである。ブルダ地区に住む者は、サン=ジェルマン地区で起きることについて無知である。わざわざ挙げるまでもない2、3名の例外を除けば、大多数の芸術家というのは言ってしまえば、とても器用な愚か者、純粋な手工業者、村の知識人、集落の頭脳でしかない。彼らの会話は実に狭い仲間内にすっかり限られていて、世界人、つまりは宇宙の精神的市民にとっては、たちまち耐え難いものになってしまうのである。

続いて、G氏の理解へと進み入るために、次のことを記憶願いたい。それは、好奇心というものが彼の天才の出発点として見なされ得る、ということである。

今世紀の最も力強い筆によって描かれた一つの絵画(これこそまさに「絵画」というべきものであろう。)で、『群集の人』というタイトルのものを覚えているだろうか?あるカフェの窓の向こうで、一人の病み上がりの人物が、喜びながら群集を眺め、その思考を彼を取り巻き活動しているあらゆる思考に溶け合わせている。死の影から最近戻ったその男は、悦楽とともに人生のあらゆる新芽と香りを吸い込んでいる。あたかも自分が、全てを忘れてしまいそうであったかのように、彼は全てを思い出し、熱意をもって全てを思い出そうと望む。そしてとうとう、彼はこの群集を掻き分けて、ある見知らぬ人物を求めて駆け出す。一目見ただけで、その人物の表情が彼を魅了したのであった。好奇心が、致命的で抑制しがたい情熱になったのである。

常に精神的に病からの回復期にあるような芸術家というものを想定していただきたい。それこそが、G氏の性格を理解する鍵となるのである。

さて、病み上がりというのは、子ども時代への回帰のようなものである。病み上がりの人間は、子どものようにではあるが、より高い段階で、たとえそれが見た目は詰まらないものであっても、事物に対する生き生きとした関心を享受する。もし可能であるならば、想像力の懐古的な力によって、我々の最も若々しく、最も原初の感覚へと溯ってみよう。するとその感覚には、後に我々が肉体的な病気の後で、その病気が精神的な能力を純粋で無傷なままに残してくれさえいれば受け取ることができるほどに生き生きとした色鮮やかな感覚との間に、奇妙な類似性があることに気付くだろう。子どもは全てを新しさの中に見る。そして子どもは常に陶酔している。我々がインスピレーションと呼んでいるものに何よりも近いのが、子どもが形と色の中に味わう喜びなのである。これをさらに進めて次のように断言しよう。インスピレーションは鬱血と何らかの関係を持っており、あらゆる崇高な思考は神経の衝撃を伴う。その衝撃は程度の差こそあれ十分激しいもので、小脳までをも震わせるほどである。天才的な人間は頑強な神経を持っているが、子どもの神経は虚弱である。一方においては理性が重要な位置を占め、もう一方においては感性が存在のほぼ全てを支配している。だが天才というのは、意識的に見出された子ども時代である。成人の器官と、無意識的に集められた素材全体に秩序を与えることを可能にする分析的精神とを授けられた子どもなのである。この深遠で愉快な好奇心にこそ、子どもが新しいものを前にしたとき、表情でも景色でも、光や金箔、色彩きらめく織物、化粧によって美しくされた美など、その目新しいものが何であれ、一点を見つめ、動物的な興奮に浸る理由を認めるべきであろう。私の友人の一人が、ある日私に言ったのだが、彼は小さい頃、父親の身支度に立ち会っていて、甘美さの混じった驚きとともに、両腕の筋肉や、ばら色と黄色の微妙に混じった肌の色の濃淡や、血管の青味がかった網目模様に見入っていたそうである。外的生活の情景が、彼を既に尊重の念で満たし、彼の脳を支配していた。すでに形が彼につきまとい、彼を我が物としていた。宿命が早くも彼の鼻先に現れていた。劫罰が下されたのだ。この子どもが今では著名な画家となっていることをいう必要があるだろうか?

先ほど私はG氏を永遠の回復期の病人と見なすように願ったが、この概念を完全にするためにG氏を、大人であり子どもであるような者、毎分毎分子どもの天才を所有しているような大人、つまりはその生命のいかなる側面をも鈍らせていような天才としても想像していただきたい。

彼のことを純粋な芸術家と呼ぶことを好まないというのは既に言ったとおりである。そしてまた、彼自身も貴族的な恥じらいを備えた慎ましさをもって、この称号を拒んでいることも言った。私は彼をすすんでダンディーと呼ぼう。それには正当な理由が幾つかある。ダンディーという言葉は、この世界の精神的な仕組みを全て感じる鋭敏な知性と、性格のエッセンスとを意味するからである。その一方で、ダンディーは無感覚を熱望する。この点においてG氏という、見ること感じることへの飽くことのない情熱に支配されている人物は、著しくダンディスムからかけ離れているのである。「愛することを愛していた」と聖アウグスティヌスは言っていた。「情熱を情熱的に愛している」とG氏はすすんでいうだろう。ダンディーは、政治や階級的な理由によって、麻痺しているか、もしくは麻痺している振りをする。G氏は麻痺している人々を恐れる。G氏が身に付けている技術は実に難解なものであるため(洗練された精神の持ち主なら私の言いたいことが分かるだろう)、滑稽さなしには率直になることが出来ない。もしも、造形芸術の状態に集約された、可視のもの可蝕のものに対する彼の極度の愛情が、形而上学者の触知不可能な王国を作り上げているものに対する嫌悪を吹き込まないのであれば、私は彼を、哲学者の名前によって飾り立てよう。彼はその名を持つのに十二分の資格がある。彼を画趣溢れる純粋なモラリスト、たとえるならばラ・ブリュイエールのようなモラリストとして表そうではないか。

群集こそが彼の領域である。大気が鳥の領域であり、水が魚の領域であるように。彼の情熱にして職業であるもの、それは群集との婚姻である。完全な遊歩者、情熱的な観察者にとって、数の中、揺れ動くものの中、運動の中、束の間と永遠なものの中に住居を定めることは広大な喜びである。我が家の外にいながらにして、どこにいても我が家にいるように感じる、世界を見る、世界の中心にいる、世界に隠れ続ける、そのようなことが、こういった自由で、情熱的で公平な精神が持つ、言語によってでは不器用にしか定義し得ない、慎ましやかな喜びの幾つかなのである。観察者とは、どこにいても自己の無意識を享受する王族なのである。生命の愛好者は、世界を己自身の家族とする。あたかも美しい性の愛好者が、既に見つけだした美女や、これから見つけ出す、もしくは見つけ出すことの出来ないであろう美女たち全てを、彼の家族とするように。もしくは絵画の愛好者が、キャンバスに描かれた夢によって魔法をかけられた社会の中で生きているように。そのようにして、普遍的な生を愛する者は、電気の巨大な貯蔵庫の中に入るように群集の中に入っていく。この人物を、群集と同じくらいに巨大な鏡にたとえることが出来るだろう。もしくは意識を授けられた万華鏡にたとえることが出来るだろう。その万華鏡は、動きの一つ一つにおいて、多様な生と、生の持つあらゆる要素の動的な魅力とを体現するのである。それは非我に飽くことのない自我である。瞬間ごとに非我を、生そのものよりも生き生きとした、常に定まらることのない束の間の姿に変えて表現するのである。ある日G氏は、力強い眼差しと、喚起力を持った仕草とでとある会話を輝かしながらこう言った、「あらゆる能力を飲みこむような、実に明確な性質の怒りに苦しまないような人間は、群集の懐で退屈するような人間は、皆愚か者である!そして私はそのような愚か者を軽蔑する!」と。

G氏は目覚めて両目を開き、騒々しい太陽が窓ガラスに襲い掛かるのを見ると、公開と未練とを込めて一人言う。「なんという尊大な命令なのか!なんという光のファンファーレなのか!もう何時間も前から光がいたるところに!私は睡眠によって光を失ってしまった!光に照らされた事物を私はいくつも見ることが出来たのに、私はそれを見逃してしまった!」そして彼は出発する。生命の大河が厳かに、光り輝いて流れるのを見る。彼は、首都における生命の永遠の美しさと驚くべき調和に、人間の自由が生み出す騒音の中にまさしく摂理に従って保たれている調和に、感嘆する。大都市の風景、霧によって愛撫され、太陽の息吹が打ちつける石の風景を彼は眺める。彼は享受する、美しい装身具を、誇り高い馬たちを、馬丁たちの輝かんばかりの清潔さを、召使たちの器用さを、女性たちの波打つような歩き振りを、美しい子供たちを、生きることに、着飾っていることに幸福を感じている子どもたちを、彼は享受する。もしも何らかの流行が、たとえば衣服の布地がわずかに変化すれば、リボンの結び目や留め金が花飾りにとって代わられれば、帽子のリボンが広がったり、巻き髪が一段階うなじの方に下りれば、腰紐の位置が高くなったりスカートが大きくなったりすれば、信じていただきたいのだが、はるか遠くから彼の鷹の目は、その変化に気付いてしまうのである。連隊が通る、彼らはおそらく世界の果てまで行くのだろう。大通りの大気に、希望のように心を捉える軽やかなファンファーレを響かせている。するとG氏の眼は、この部隊の武器や歩き振りや風貌を見て、観察し、分析してしまう。馬具や煌めき、音楽、決然とした眼差し、重く真剣な口ひげ、これら全てが彼の内に混然となって入り込む。そして数分後には、その結果として詩が潜在的にはもう創造されている。このようにして彼の魂は、一頭の動物のように歩いている、歓喜と従属の誇り高い象徴となったこの部隊の魂と共に生きるのである!

しかし夕暮れがやってくる。それは奇妙で怪しげな時間、天空の幕が閉まり、都市に明かりが灯る時間。ガス灯が沈む夕日の紫色に染みを付けていく。誠実な者も卑猥な者も、理性的な者も気の狂った者も、人間たちはこう言う、「やっと一日が終わった!」賢者たちも、下劣な臣下たちも、快楽のことを想い、みなそれぞれに選んだ場所へと駆け込んで、忘却の杯を飲む。G氏は最後の一人になっても、光が輝き、詩が鳴り響き、生命がうごめき、音楽が震えるあらゆる場所に留まるだろう。「さて、これで一日を大切に利用した!」と我々が皆良く知っているある読者が言う、「我々は誰しも、同じように一日を満たすのに十分な才能を持っている」と。いや違う、見る能力を授けられた人間は僅かしかいない。ましてや表現する力を所有する者はさらに少ない。今や、他の者たちの眠る時間に、この人物は机に身を傾けて、クレヨンや鉛筆や絵筆を使い奮闘し、グラスの水を天井に跳ねかけ、絵筆をシャツでぬぐい、急ぎ、荒々しく、活発に、あたかもイメージが彼から逃げてしまうのを恐れているかのように、ただ一人気を荒げて、自らを急きたてる。すると事物が紙の上に蘇る。作者の魂のように独特で、熱狂的な命を授けられている。幻影が自然から引き出されたのだ。記憶が抱え込んでいた全ての素材が分類され、配列され、調和している。そして子どもじみた知覚、つまりは無邪気な力による魔法とでも言うべき鋭敏な知覚の結果として、激しい理想化の影響を帯びるのである。

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