『現代生活の画家』第10章「女性」

10、女性 La Femme

ある存在は大多数の男にとって、非常に生き生きとした歓喜、そして哲学的欲求にとっての恥を承知で言ってしまえば、非常に持続性の高い歓喜の源となっている。彼らのあらゆる努力が、その存在に向かって、もしくはその存在の利益のために差し出される。この存在が、恐ろしく、理解不可能であるのは神の如くである。(ただし無限が有限と意思疎通を果たせないのが、無限が有限を盲目にし圧倒してしまうからであるのに対して、我々が問題にしている存在が理解不可能であるのはおそらく、単にそれが意思疎通するためのものを何一つ持っていないという違いがある。)この存在の中に、ジョゼフ・ド・メーストルは、その優美さが政治の真剣な駆引きを、和ませ陽気にしてくれるような美しい動物を見ていた。この存在のために、もしくはこの存在によって、財産が築かれたり、失われたりする。この存在のために、それ以上にこの存在によって、芸術家や詩人たちは、自分たちの最も繊細な宝石を作り上げる。この存在から、何よりも心を苛立たせるような快楽と、何よりも実り豊かな苦悩とが生み出される。一言で言えば、女、というこの存在は、芸術家全般にとってだけでなく、とりわけG氏にとって、単なる人間の雌というようなものではない。それはむしろ、雄の脳に浮かぶあらゆる概念を司る一つの神聖であり、一つの星である。それは自然のあらゆる優美さを、唯一の存在の中に凝縮させた輝きである。それは感嘆の対象であり、人生という絵画が観察者に与える中で、最も激しい好奇心の対象である。この一種の偶像は、おそらく愚かではあるが、しかし眩く、魅惑的で、その眼差しには運命と意志とが吊り下げられている。それは、正しく組み合わせられた四肢が完全な調和を体現しているような動物などではない。彫像家が非常に真剣な瞑想の中でやっと夢見ることができるような、純粋な美の類型などでもない。これでもまだ、この存在が持つ不思議で複雑な魅力を十分に説明してはいないだろう。今ここで、我々にヴィンケルマンやラファエロは必要ない。その知性の博識振りにも関わらず(こう言っても失礼にはなるまい)、G氏が古代の彫像家たちの作品を知らないであろうと私は確信しているが、レノルズやローレンスの肖像画を堪能する機会は逃さなかったであろうと思う。女を飾る全ての物、その美を輝かせるために用いられる全ての物は、女という存在の一部を成している。だからこそ、この謎めいた存在の研究に、特に打ち込んだ芸術家たちは、女そのものと同じくらいに、あらゆる「女性的な世界」に夢中になるのである。女とは、おそらく一つの光であり、眼差しであり、幸福への誘いであり、そして時には言葉である。しかし何よりも女とは、全体の調和である。それは歩きぶりや四肢の動きだけでなく、モスリンやヴェールや、ゆったりとした煌めく数々の織物のような、彼女を覆い、その神性にとっての属性や台座となっているものにおいての事でもある。さらには、金属や鉱物といった、腕や首の周りを取り巻いたり、炎のような眼差しに輝きを添えたり、耳元で静かにさえずるようなものにおいても言える事である。一体どんな詩人が、ある美女の出現が引き起こした快楽を描く際に、その女を衣装から引き離すであろうか?一体どんな男が、道端や、劇場や、森において、非常に公平な態度をもって、賢明に整えられた装いから快楽を得なかっただろうか?そしてそれが属している女とは切り離す事のできないような美のイメージを持ち帰り、女と衣装の二つによって、分ち難い総体を作り上げなかっただろうか?私が思うに今こそ、この研究の冒頭では僅かにしか触れなかった、流行と装飾品とに関わる幾つかの問題に立ち返るときだろう。それによって、化粧の技術のために、愚かな中傷によってそれを迫害している実にいかがわしい自然の愛好者たちに対して復讐を果たそうではないか。

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